本好きからの信頼は抜群! 岸本佐知子氏が選んだ“感情を揺さぶられる短編集”
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
イラク戦争に従軍しようとしている兄を翻意させたくて、ボブ・ディランを連れて帰省する。癌で死にかけている妹のために、仕事を辞めてメキシコ行きの飛行機に乗る。飛行機で隣あわせになった有名俳優と仲良くなって、電話番号を教えてもらう。病気にかかった犬に、ちっちゃな娘を噛み殺されてしまう。骨にドリルで穴をあけ、中にアリの巣を作ってくれる医者を探す。遺体の髪をタバコのように吸うことで、遺体の生前の記憶が映画みたいに頭の中に映し出される異能を持った友人に、自分の髪を吸ってもらう。言い争いに熱中していた夫婦が、いなくなってしまった我が子二人を必死で探す。アラサー女性三人が他愛のないおしゃべりで楽しい夜を過ごす。山の中から眠っていた巨人が三人姿を現す。ゲイの学者が愛するパートナー男性に、ナチスによって同性愛者につけられていたワッペンを贈る。死んだか死にかけているかしている祖母たちが、わけがわからないまま大きな船に乗せられている。
以上は、近年はアンソロジストとしても本好きに信頼を寄せられている翻訳家・岸本佐知子編訳による『楽しい夜』に収められた十作家十一篇の出だしの紹介だ。現実的な設定から始まっている作品と、奇想から滑り出す作品の二パターンになっているものの、紹介した先に展開する物語を読めば、読後感は千差万別。胸が痛くなったり、笑ったり、涙ぐんだり、怖くなったり、淋しくなったり、熱に浮かされたようになったりと、ただ紙に印刷された活字を読んだだけなのに、そこから生まれる感情はなんだかものすごく切実なのだ。
エラン・ビタール(生の飛躍)とも言いうる、生きているからこその歓びや輝かしい瞬間と、時折わたしたちを打ちのめす諦念や哀しみ。無類に面白い十一篇の物語が、その双方を読者の体験や記憶の中から蘇らせてくれる。小説って凄いと、心の底から思わせてくれる短篇集なのだ。