『脂肪のかたまり』
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「脂肪のかたまり」――娼婦への同情が伝わる、モーパッサンの出世作
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
一八七〇年に勃発したプロイセンとフランスの戦争(普仏(ふふつ)戦争)は翌年にはプロイセンが勝利し、それを契機にドイツ帝国が誕生した。
モーパッサン(一八五〇―九三)はこの戦争に一兵士として従軍。惨憺たる敗北にさらされた。本作(八〇年)はその体験から生まれている。師フローベールに絶讃され出世作となった。
プロイセン占領下のセーヌ河畔の町ルアンから、町の有力者たちが脱出を図ることになる。乗合馬車に乗り、イギリス海峡に面した港町まで行く。
貴族、商人、工場主、それぞれの夫人、修道女ら十人。なかにブール・ド・シュイフ(脂肪のかたまり)と呼ばれる太った娼婦がいる。一人だけ身分が違う。
冬。馬車の旅は難航する。予定が遅れ乗客は空腹に襲われる。食料を用意していた娼婦は、鳥肉やパテ、果物を全員に分け与える。いたって気がいい。
ようやく小さな町に着く。宿屋に泊るが、そこで足止めを食う。占領者のプロイセンの士官が出発を許可しない。どうも士官は娼婦の身体に用があるらしい。
乗客たちは、それを知って怒り狂う。娼婦も無論、敵に身をまかせるつもりはない。ところが足止めが長引くにつれ、空気が変わってゆく。
乗客たち、とりわけ夫人たちは、自分たちのために娼婦が犠牲になるべきだと考えるようになる。あからさまに態度で現わす。そしてついに娼婦は――。
上流階級の人間たちの身勝手さ、精神の醜悪さが浮き上がる。モーパッサンの彼らへの怒り、娼婦への同情が伝わる。
永井荷風はモーパッサンを敬愛した。『ふらんす物語』のなかで、自分がフランス語を学ぼうとしたのは、その著作を原文で読みたかったからだと書いている。「ああ、モーパッサン先生よ」と。
お高くとまった連中より、娼婦のなかにこそ「黄金のハート」を見る作家の思いに共感したのだろう。
馬車に乗り合わせた人間たちの間でドラマが起る。「駅馬車」(一九三九年)のジョン・フォード監督は、この映画は『脂肪のかたまり』そのものだと語っている。