武田勝頼は愚将だったのか? 歴史小説家・伊東潤がみた「武田家滅亡」

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1582(天正10)年3月。
戦国最強と言われた甲斐武田家は織田・徳川連合軍によって滅亡した。
名将・武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、設楽原(長篠)合戦の大敗から巻き返しを図るも、躍進する織田信長に対抗することはできなかった。

父の功績を無にした愚将として、武田勝頼に関する評判は芳しくない。
しかし、彼の行動を分析すると、評価とは違う顔が見えてくるという。

デビュー作『武田家滅亡』を通じて、武田勝頼とその家臣たちを描いた著者、伊東潤が
ファンイベント「伊東潤の城めぐり 武田家滅亡ツアー」を通じて勝頼の実像に迫る。
1泊2日のツアーを通じて、見えてきたものは何か。

■居城移転にみる、勝頼の非凡さと不運

~釜無川 → 新府城跡~
ツアースタート時、伊東潤にこんな質問をしてみた。
「勝頼が武田家を存続させていたら、どんなものを残せたでしょうか? 」

信玄は「信玄堤」や「聖牛」など、今なお残る功績があるが、勝頼に関してはイメージが思い浮かばなかったからだ。

私の質問に対する解答は明確だった。
「勝頼は残せなかったと思う。功績を辿っていくと、内を固めるよりも外へ攻める人。例え一時の危機を乗り切ったとしても、家の存続は難しかったと僕は思っている。」

武田勝頼というと、愚将というイメージが先行しすぎていて、その実績はあまり知られていない。だが、伊東潤によると、勝頼の功績は数多く存在する。
実際、武田家の領土を最大にしたのは、信玄ではなく勝頼なのだ。
実績を見れば、愚将とはとても言い切れないのではないか。
 
しかし、その功績があっても、「勝頼は残せなかった」とする伊東潤の解答は揺るがない。
その理由の鍵は、新府城跡にあった。

 ***

現代において、県庁所在地移転が困難なように、戦国時代に居城を移動させることはそう簡単なことではなかった。
 
しかし、その一大事業を、勝頼は成し遂げようとした。
名将・信玄ですら行わなかったことだ。『武田家滅亡』では、勝頼が移転を重臣に発表したとたん、家臣からの猛烈な反対や反発を招いたシーンが描かれている。

新たな居城・新府城は、広域経営を意識した交通の要衝に位置していた。
それまでの武田家にはなかった着眼点だ、と伊東潤は分析する。

今後、織田・徳川軍が侵攻してくる場合、今の防衛機能では数万を超える軍勢を迎え撃つことができない。勝頼が導き出した答えは、今の時代にあった防衛網を作り出すことだったのだ。

ツアーで実際に新府城跡を訪れた。
馬出や出溝(みぞいだし)、郭跡(かくあと)など、武田家流築城術の粋を結集した縄張り(城の作り方)を見ながら本丸跡へ。

本丸跡は起伏のない平地。南北600メートル、東西550メートルとかなり広大だ。
山城でありながら、居住・行政能力をも備えた、近代的な平山城だったことが覗える。
 


新府城跡に残る大手丸馬出。

見れば見るほど、聞けば聞くほど、新府城は名城になりえたかもしれない、と思えてくる。

しかし、築城に費やした膨大な費用や動員された人手は、武将たちを疲弊させていく。その不平不満を、織田・徳川軍は見逃さなかった。

新府城築城開始からわずか1年後。
家臣・木曽義昌の裏切りをきっかけに織田・徳川軍の攻勢が始まり、事態は一変。
建築途中の新府城では防ぎきれないと判断した勝頼は、城からの退去を決断。

新府城は焼かれ、この世から姿を消した。

『武田家滅亡』にて、伊東潤は勝頼の心情をこう描いている。

「結局、新府城は二ヶ月あまりしか使用されなかった。その無骨な構えとは裏腹な儚さに、勝頼は自らを見る思いがした」
 
 居城移転という勝頼の決断は、結果として武田家滅亡へのトリガーを引いてしまったことになる。

■武田ブランドの光と影を背負った、勝頼の悲劇

 
~(1日目)武田八幡宮 → 躑躅ヶ崎館跡 → 勝沼氏館跡 → (2日目)恵林寺~

武田家滅亡に遡ること約10年。元亀4(1573)年、父・信玄の病死に伴い、勝頼は武田家を相続した。

信玄の長男と三男はすでに亡く、次男は盲目のため跡を継げる状態ではなかった。
必然的に勝頼、となったのだが、この人事を伊東潤はこう語る。
「勝頼が武田家(信玄)の跡を継いだことが、武田家滅亡に直結したのではないかな。」
その理由は、勝頼が継いだ「武田」という大きすぎるブランドの“光”と“影”にあるのだという。
 
武田家は元々の守護時代から、戦国大名へスライドすることができた大名。
「下克上」で成立する戦国大名が多い中で異色の存在だ。
その力強さは「武田」ブランドとして、地域に根付いている。
代々の武田家当主が神聖な場所として、保護し続けてきた武田八幡宮をツアーで訪れた。
平安時代創建といわれ、武田氏(甲斐源氏)の氏神として崇拝されてきた武田八幡宮は、戦乱の時代を乗り越え、今日まで守り続けられている。
まさに、「武田」ブランドの象徴だ。
(本殿は国の重要文化財に指定されており、他にも貴重な建造物が残っている)

そして、武田家代々の居城だった躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)。
躑躅ヶ崎館甲冑隊のみなさまが出迎えてくれて、伊東潤・甲冑隊による、豪華で貴重な解説のもと、今なお残る防御に特化した敷地作りを見学。


躑躅ヶ崎館甲冑隊のみなさま。

武田氏の遺構は、豊臣時代に徹底的に破壊され、ほとんどが土の中。
しかし、この地に根付いた「武田」ブランドは今なお、地域の誇りとなっているように感じた。

だが、「武田」ブランドには“光”だけではなく、“影”もあった。
そして、伊東潤によると、その“影”こそが、勝頼という武将の悲劇につながっていくのだという。

 ***

戦国時代、肉親や家族縁者は最大の敵となることが多かった。
名将・信玄も例外ではなく、妹の嫁ぎ先である諏訪家を打ち破り領土を手にしている。
さらに後年、武田家の方向性を巡って長男(つまり勝頼の兄)義信と対立。
最後は義信を自害に追い込んでいる。

そして、粛正は、「勝沼氏館跡」が現代にまで伝わる、武田家一門衆・勝沼氏にも及んだ。
真偽は定かではないが、この勝沼氏は謀反を疑わられ、信玄によって殺害されてしまう。
(生き残った信元の妹は尼となり、大善寺へ。後に勝頼と出会うことになる)

武田軍団は、身内との争いの果てに作られたものだった。
そして、信玄の滅ぼした諏訪家の血を引いて生まれた男子は、義信の死によって武田家を背負ってしまう。
その男子とは、武田勝頼その人。

彼は信玄の暗部を全て背負ったかのような生い立ちだったのだ。

「勝頼が武田家(信玄)の跡を継いだことが、武田家滅亡に直結したのではないかな」という言葉は、勝頼の力量云々だけではなかった。
信玄が武田家を拡張させるために侵した、数多の悲劇によって生まれた子が、武田家を継がなければならなかった。その事実そのものが、武田家滅亡への一歩だった。

 ***

ツアー2日目。武田八幡宮と並ぶ武田家の聖地・恵林寺へ。
伊東潤によると、信玄は生前から、恵林寺を自らの菩提寺として定めていたようだ。
そして、自分の死後を託したのは、恵林寺の高僧・快川紹喜だった。


快川紹喜が閉じ込められてその生涯を閉じた三門

信玄から絶大な信頼を寄せられたという快川紹喜は、織田軍侵攻時、生きたまま焼かれるという惨い仕打ちを受ける。
「心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉はこのときに生まれた。その生き様は、信玄が見込んだとおりの人物として、後世に語り継がれた。
(現在の三門には遺偈が掲げられており、今でもその功績が語り継がれている)

死すら託せる人を得た信玄。
勝頼がそういった理解者を持っていた、という話は寡聞にして聞いたことがない。

諏訪家に生まれ、後継者たる体制ができあがる前に武田家を背負うことになった勝頼。
やはり、勝頼には自分の力ではどうしようもない、大きなハンデを背負い続けた武将だったのだ。

■勝頼、最期の選択

~(2日目)大善寺 → 「四郎作古戦場」「鳥居畑古戦場」 → 景徳院 → 栖雲寺~

1582(天正10)年3月
新府城を焼いた勝頼ら一行は、大善寺に逗留する(目的は戦勝祈願とされている)

現地を訪れると、甲府盆地を一望できる柏尾山に建立されているため、非常に見晴らしがいい。敷地内には、国宝が2点も保管されており(薬師堂と厨子)、重要文化財や貴重な文化財が多数保管されている。


ぶどう寺・大善寺本堂。

勝頼をもてなした尼は理慶尼といい、「勝沼氏館跡」の領主・勝沼氏の娘であった。
彼女はこのときの勝頼の様子を「理慶尼記(武田勝頼滅亡記)」で記しており、勝頼の様子を伝える貴重な史料となっている。(写本は大善寺に展示されている)

ひと時の安らぎを得た勝頼だったが、岩城城主・小山田信茂の裏切りを知らされる。
そこは、勝頼が新府城立ち退き後、身を寄せる予定の場所だったのだ。
勝頼の狙いは、またしても外れることとなった。

 ***

新府城を立ち退く前、勝頼ら武田家首脳陣は、新府城を出た後の逃げ延び先について議論を重ねていた。
ここが、勝頼運命の選択となる。

一説によると、真田昌幸の岩櫃城か、小山田信茂の岩殿城のいずれかに絞り込まれたが、真田昌幸の忠節を疑った勝頼側近によって、小山田信茂の岩殿城へ決まったと言われている。

しかし、伊東潤はその説に懐疑的だ。
新府城から岩櫃城まで、現在の距離で約160kmも離れている。女子供を伴っての移動を考えると非現実的だ。織田・徳川連合軍に追いつかれる可能性も十分ある。

それに対し、岩殿城は新府城からの近さに加えて、北条氏領土に近いことも魅力の一つ。
北条氏と武田氏との関係は悪化していたが、勝頼夫人は北条から嫁いだこともあり、つながりがないわけではない。
岩殿城へ身を寄せることは、状況を考えれば悪手とは言えなかったのだ。
 
だが、現実は最悪の形で勝頼を追い詰める。
付き従う家臣はごくわずかとなり、引き返すことも追っ手を振り切ることも難しい。
もはや選択肢はほとんどなく、勝頼一行は天目山へ向かうことになる。

 ***

勝頼とその一行は現在の景徳院にて最期を迎えたとされている。

啓徳院に向かう途中に「四郎作古戦場」と、「鳥居畑古戦場」の石碑がある。
ここで、勝頼家臣は勝頼最期の時を稼ぐため、織田軍を迎え撃った。

勝頼側はわずかな数で雲霞の兵と戦わなければならなかった。
しかも、二つの古戦場間の距離はわずか200mほど。景徳院までもわずか1kmほどしかない。
忠臣たちの奮戦は、ささやかな時間を稼ぐことしかできなかった。

本堂でお参りをした後、裏手にある勝頼・信勝・夫人の墓へ。
そこにある3人の墓はなぜか甲将殿(武田家の遺品が保管されている)の裏。
まるで、墓石を隠すかのように。

「これはなぜか、わかっていないんですよね。」
現地で伊東潤は語る。

そもそも勝頼が最期を迎えたとき、この地に景徳院は存在していなかった。
武田家滅亡後、この地を治めた徳川家康が、勝頼らを供養するために建立したのが景徳院なのだ。
ということは、墓石の位置は家康の思惑の元に配置された、と想定される。
だが、その真意は未だにわかっていないという。

勝頼と息子・信勝の最期については諸説あり、はっきりしていない。
自害したとも、討ち取られたともされている。

 ***

景徳院を持って、勝頼の足取りをたどる旅は終わりを告げた。
だが、もう一つ、いかなければならない場所がある。
勝頼が、本当にたどり着きたかった場所、栖雲寺だ。

景徳院からさらに北上すること、約10km。
標高1,000m近くまで登り上げた先にある栖雲寺は、武田氏が代々庇護したゆかり深い寺。

境内には武田家当主が必勝祈願をした摩利支天が祀られており、巨岩からなる石庭がある。修行僧たちが日夜修行をしたといわれており、本堂は目立った装飾がない分、無用な要素をそぎ落としたかのような雰囲気を感じさせる。

多くの重荷を背負ってきたからこそ、最期は無になりたい。
もしかしたら、そんな思いが勝頼にあったのかもしれない。

〈終わり〉

CORK
2019年7月4日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

CORK

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