ノーベル賞で注目! 「ゲノム編集技術」が寄与するフードセキュリティ

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高GABAトマト、ロメインレタスなど新品種開発が進んでいる(写真はイメージ)

 今年のノーベル化学賞は、遺伝子を効率よく改変できる技術「ゲノム編集」を開発した2人の女性科学者に授与される。農業や医学など幅広い分野に普及している「クリスパー・キャス9」という手法を考案し、実用化につながったことが評価されたもの。20年以上科学ジャーナリストとして活躍する松永和紀氏の著書『ゲノム編集食品が変える食の未来』(ウェッジ刊)では、その手法が食の分野でも大きく貢献する可能性について書いている。今回はその松永氏に、今年のコロナ禍で必要に迫られているフードセキュリティの確保の観点から語っていただいた。

コロナ禍で揺らぐフードセキュリティ

 2020年10月、スウェーデン王立科学アカデミーは、ゲノム編集の新技術を開発した2人の女性研究者にノーベル化学賞を授与する、と発表しました。

 ゲノム編集は、生物のゲノムの特定の場所を人為的に切り遺伝子を変異させる技術です。ゲノム編集自体は従来、別の方法でも行われていたのですが、2人の科学者が開発したゲノムを切る“遺伝子のはさみ”の技術は、ゲノム編集をすばやく簡便、正確にできるようにした、という点で抜きんでていました。

 2人が2012年に発表すると、瞬く間に世界中でこの技術を用いた研究が広がり2020年にはノーベル賞に。そのスピードを見れば、いかにすぐれた技術であるかがわかります。選考にあたったスウェーデン王立科学アカデミーの委員会は「革命的な基礎科学であるだけでなく、革新的な作物や医療につながるものだ」と称えています。

 報道を見ていると、品種改良と医療における応用を同一視し、期待の大きさと倫理面での懸念を語る評論家、科学者が目立ちます。しかし、品種改良と医療ではゲノム編集技術の用い方が大きく異なり、明確に区別しなければなりません。

 ゲノム編集食品の重要性は今、著しく高まり期待も大きくなっています。なぜか? 新型コロナウイルス感染症(COVID‐19)の地球規模の流行、すなわちパンデミックが今、世界の人々の暮らしを大きく変えつつあるからです。フードセキュリティの危機が迫っています。ゲノム編集食品は、その解決に大きく貢献できる、とみられているのです。

「食の安全」とよく言いますが、3種類あるとされています。微生物や自然毒による食中毒を防いだり、農薬や食品添加物を適正使用したりするなどして守るフードセーフティ(Food Safety)と、食品に毒性物質が仕込まれるなどの犯罪や破壊行為を防ぐフードディフェンス(Food Defense)、そして食料を安定的に生産し供給するという食料安全保障を意味するフードセキュリティ(Food Security)です。

 国連食糧農業機関(FAO)は2020年7月、新型コロナに立ち向かうためのプログラムを公表しました。そこで強調されたのは新型コロナが世界的なフードセキュリティと人々の栄養に深刻な影響をもたらしており、各国が協調して闘わないと乗り越えられない、という見通しです。豊かな日本ではフードセーフティばかりが話題となりますが、世界での深刻な課題はフードセキュリティです。

 国連が公表した「世界の食料安全保障と栄養の現状」というレポートによれば、新型コロナのパンデミックが起きる前の2019年の段階で、約6億9000万人が飢餓に陥っており、過去5年で約6000万人も増加しています。そして、何十億人もの人々が飢餓には至らずとも栄養のある食事をとれていません。レポートは、新型コロナのパンデミックによりさらに、1億3000万人以上が慢性的な飢餓に陥る可能性がある、と予測しています。

パンデミックが危うくした世界の食糧事情

 パンデミックにより、生産や流通の場が感染を防ぐために操業を中止したり、働き手が減ったりするなどして、食品が滞るケースが出てきました。それに伴って食料価格の高騰が起きています。

 穀物は収穫時期の前には在庫を減らすために例年なら価格が下がるのですが、2020年は下げ幅が大きくありません。確保しておこうという思惑が強いようです。一方で、働けないために収入が得られなくなった人たちがおおぜい出てきており、食料を買えなかったり質を落としたりせざるを得ない状況にあります。

 興味深いことに、中国では牛乳が含むたんぱく質「ラクトフェリン」が免疫を活性化する、という説が広まり、牛乳の消費量が急激に上がっている、と報道されています。牛乳を得るために多くの穀物が牛に与えられ消費されます。家畜と人が穀物を奪い合う状況を反省した欧米では近年、肉ではなく植物性食品を食べようというムーブメントが起きていました。家畜は大量の穀物を消費して肉や乳製品となるからです。

 しかし、新型コロナへの恐怖はそれを覆すかもしれません。先進国がより栄養価、品質の高い食品を志向して新型コロナから我が身を守ろうとし、開発途上国はその煽りを受けて穀物を買えず飢餓、貧栄養に陥る、という構図が起こりうるのです。

 途上国の人々が栄養不足となり体が弱くなっているところで新型コロナに感染すると、症状は重くなりがちとなり死の危機にさらされます。そして感染が拡大するとさらにフードセキュリティが脆弱になりパンデミックに拍車がかかり、一部の先進国はより質の高い食を求めて買い占めという悪循環へ……。

 これまでも、食料を効率良く生産できたり購入できたりする先進国の人々がたっぷり食べ、残りを廃棄し、途上国は生産できず食料価格高騰により購入ができずに飢えに苦しむという矛盾が大きな問題でした。残念ながら、パンデミックによりその矛盾、不均衡がますます複雑に大きくなって行くことが予想されています。フードセキュリティは危うくなりそうなのです。

実用化が進む「ゲノム編集食品」

 2015年の「国連サミット」で採択された持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)では、2030年までに実現すべき17の目標(ゴール)が定められました。「貧困を終わらせる」「飢餓を終わらせる」「すべての人々に健康的な生活を確保し福祉を促進する」「持続可能な消費生産形態を確保する」など重要な項目が並びます。フードセキュリティの確保はSDGsのすべての目標を支える基盤です。

 また、SDGsでは今後の世界のありようを示す重要な言葉が提起されました。レジリエンス(resilience)です。打撃を受けてもしなやかに元に戻る弾力性を意味する言葉。パンデミック下で、レジリエンスのあるフードシステムを目指し、複雑化する問題に対処し、フードセキュリティを確保してゆくことがますます重視されるようになりました。そして、ゲノム編集食品はさまざまな特性によりまさに、このレジリエンスを実現するのにうってつけの技術なのです。

 日本は育種技術では歴史上、世界的な実績を残してきました。民間企業の育種技術にも定評があります。研究コストがほかの方法に比べてかなり安くなると見込まれています。日本のように資源が少なく現在では研究資金が潤沢とは言えなくなった国でも、世界のフードセキュリティに貢献できる技術を生み出すチャンスがあります。技術をもっと進展させてゆきたい。日本独自の品種開発をさらに発展させ世界に貢献してゆきたい……。今、日本の育種業界ではその機運が盛り上がっています。

 国もゲノム編集食品の実用化に向けて態勢を整えました。安全性を守りながらゲノム編集技術を用いた食品や飼料等を利用できるように規制を検討し、2019年度から制度の運用を始めたのです。国としての実践的な制度の構築は、世界的に見てもかなり早いほうです。

松永和紀(科学ジャーナリスト)
1963年生まれ。1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了(農芸化学専攻)。毎日新聞社に記者として10年間勤めたのち、フリーの科学ジャーナリストに。主な著書は『食の安全と環境 「気分のエコ」にはだまされない』(日本評論社)、『効かない健康食品 危ない自然・天然』(光文社新書)など。『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(同)で科学ジャーナリスト賞受賞。「第三者委員会報告書格付け委員会」にも加わり、企業の第三者報告書にも目を光らせている。

松永和紀(科学ジャーナリスト)

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2020年11月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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