〈没後1400年〉聖徳太子がカリスマであり続ける理由

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1400御遠忌を迎える聖徳太子(写真AC)

 2021年は聖徳太子が世を去ってから1400年という節目の年にあたります(没年には諸説あり、2021~2023年が御遠忌の年にあたる)。奈良国立博物館と東京国立博物館では、特別展「聖徳太子と法隆寺」の開催が予定されており、古代史のカリスマ・聖徳太子への注目が集まっています。また、コロナ禍の現在、命の大切さを再確認し、聖徳太子に心の安らぎを求める人も少なくないことでしょう。
ここでは歴史学者の瀧音能之さんが、太子ゆかりの古寺・史蹟をとおして実像を探る編著書『聖徳太子に秘められた古寺・伝説の謎』(ウェッジ)を元に、太子がもつカリスマ性についてお聞きしました。

時を越えたヒーロー・聖徳太子

 近年、歴史人物の再評価がさかんです。その結果、評価が変わった人物も少なくありません。聖徳太子もその一人です。しかし、聖徳太子の場合、他の人々とは少し扱いが違うように思われます。

 そもそも聖徳太子が活躍したのは、7世紀前後の飛鳥朝、すなわち、日本で初めての女帝とされる推古天皇の時代です。そして、興味深いことに、8世紀初めに成立した『日本書紀』には、その超人ぶりがすでに記述されているのです。

太子の死後、およそ100年を経て完成した『日本書紀』に太子が伝説化されているということは、太子の死後、あまり時を経ずして、そうした動きが起きていたと考えられるのです。
 
100年といえば、一人の人間が伝説化する時間としては、さほど長いとはいえません。その点においても、聖徳太子は特別な人物といえるでしょう。そして、現代でも聖徳太子といえば、日本人なら誰でも知っているといってもよいほど有名な「超人」といえるでしょう。

聖徳太子のいま

 もちろん、聖徳太子の評価が古代から現代まで変わらなかったわけでは決してありません。とりわけ、近年の太子をめぐる評価は見逃すことができません。たしかに、太子の超人性については、これまで疑念が出されなかったわけではありません。それでも聖徳太子を否定するまでには至らなかったようです。

 それがここにきて、聖徳太子を全否定する考えが古代史研究者たちによっていわれるようになりました。つまり、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれた皇子として厩戸(うまやと)という一人の人物はいたかもしれないが、わたしたちの知る超人的な聖徳太子は実在していなかったというのです。

 聖徳太子の超人性については、一見して誰しもがにわかに信じられないものも多く見られますが、それらを含めて、太子の業績の全般にわたって検討を加えた結果、その多くは太子がなしたものではないというのです。

歴史研究者たちからのこうした指摘は大きなインパクトをもたらしました。それは、聖徳太子の表記にも端的にあらわれています。

 高等学校の日本史教科書には、もちろん聖徳太子についての叙述が見られ、そのさいの表記は、「聖徳太子」があたりまえでした。それが、いつしか「聖徳太子(厩戸皇子)」と記されるようになり、最近は、「厩戸皇子(聖徳太子)」とする教科書が見られるようになりました。この流れでいくと、教科書から「聖徳太子」という表記が見られなくなる日が来るかと思われましたが、そう簡単な話ではないようです。

太子がもつ多様な超人性

 聖徳太子の超人性や業績の多くは、否定されつつあるにもかかわらず、厩戸皇子ではなく聖徳太子といういい方が用いられ続けられるのはなぜでしょうか。その理由はひとつではないでしょうが、大きなものとして、太子が、政治・外交・文化といったさまざまな面にその超人性を見せていることがあげられるでしょう。つまり、単にひとつの分野だけの超人ではないということです。

 太子の業績はいずれも有名なものばかりであり、いまさらくり返すまでもないですが、あらためて振り返ると、まず、政治面では、推古天皇11年(603)に制定された冠位十二階があげられます。それまでの身分秩序が、家柄の重視であり、しかも、それは世襲が原則であったのに対して、太子は個人の能力による身分秩序をめざしたのです。

家柄、門閥主義というと古くさい過去の遺物のように思われるかもしれませんが、案外、現代でもさまざまなところで隠然と存在しています。まして古代において、それも蘇我氏の全盛期に個人の実力を重視した制度をめざした太子は、まさに超人的であり、聖徳太子ならではといわれるわけです。

こうした精神は、推古天皇12年(604)に制定された憲法十七条にも見ることができます。「和」の重視、仏教への篤い信仰と共に、天皇中心主義を説いています。これも蘇我氏の存在を考えるならば、なかなかいえることではなかったでしょう。

 聖徳太子の政策には政治面だけでなく、外交面にも見るべきものがありました。推古天皇8年(600)に始まったとされる遣隋使です。崇峻天皇2年(589)に隋が中国を統一すると、その11年後に早くも隋へ使節を出したとされます。実に敏感な外交手腕というべきでしょう。しかも、隋に対して対等外交をめざしたのです。

いうまでもなく隋側は不快を示しましたが、日本と隋との関係は断絶することなく、隋の滅亡まで続けられたようです。こうした点にも聖徳太子の先見性があったといえるでしょう。

 また、文化、特に宗教面にも聖徳太子の超人ぶりが発揮されています。まず、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があげられます。「勝鬘経(しょうまんぎょう)」「維摩経(ゆいまぎょう)」「法華経」のそれぞれに注釈をつけたものであり、特に「法華義疏」については、太子の直筆本とされるものが伝存しています。

 仏教面でいえば、造寺に関しても聖徳太子は、多大な業績を残しています。四天王寺、法隆寺などの諸寺を建立し、仏教の興隆に尽力しており、このことは太子信仰の原動力となっています。

太子信仰は主に中世以降に広がりをみせ、今日にまで至っていますが、『日本書紀』に見られるような伝説化された太子像を踏まえるならば、古代からすでにそうした信仰を考えることもできます。

 聖徳太子の業績の多くが否定されたとしても、この「信仰」という面だけは簡単に否定することは難しいでしょう。太子信仰を信じるか否かにかかわらず、古代から連綿として続いてきた太子の存在は、わたしたち日本人にとっては、「厩戸皇子」ではなく、やはり、「聖徳太子」のほうがふさわしいといえるかもしれません。

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瀧音能之(たきおとよしゆき)
1953年生まれ、駒澤大学文学部歴史学科教授。研究テーマは日本古代史。特に『風土記』を基本史料とした地域史の調査を進めている。主な著書に『風土記と古代の神々』(平凡社)、『出雲古代史論攷』(岩田書院)、『古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎』『図説 古代史の舞台裏』『古代日本の実像をひもとく出雲の謎大全』(以上、青春出版社)、『図説 古代出雲と風土記世界』(河出書房新社)、『古代出雲を知る事典』(東京堂出版)、『出雲大社の謎』(朝日新聞出版)など。監修書に『最新発掘調査でわかった「日本の神話」』(宝島社)などがある。

瀧音能之(たきおとよしゆき)

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2021年4月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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