人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説

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雪が降る

『雪が降る』

著者
藤原 伊織 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041118979
発売日
2021/12/21
価格
770円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説

[レビュアー] 黒川博行(作家)

■角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

■藤原伊織『雪が降る』

人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説
人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説

■藤原伊織『雪が降る』 文庫巻末解説

解説
黒川 博行 

 藤原伊織をわたしは〝イオリン〟と呼ぶ。イオリンはわたしよりひとつ年上だが、わたしのことを〝おっちゃん〟と呼ぶ。イオリンの本名は利一といい、これをアルファベットで書いて文字を並べかえると〝IORI〟になるのだと、本人はいう。〝RIICHI〟には〝O〟がないやんけ、と思うのだが、わたしも五十をすぎたオトナだから、あえて反論はしない。で、この解説では藤原伊織をイオリンと書くことにする。
 わたしがイオリンと知りあったのは、彼が『テロリストのパラソル』で江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞したあとだった。イオリンがなにかのエッセイに、「乱歩賞という満貫を自摸ったら裏ドラがのって、直木賞という倍満になった」というふうに書いていたのを読んで、これはそうとうの麻雀好きやな、と、わたしは手ぐすねをひき、担当編集者を通して対戦を申し込んだのである。
 イオリンとの初対決は東京紀尾井町の雀荘だった。これは自慢だが、わたしは麻雀が強いので、直木賞大尽のイオリンから少なからぬ小遣いを召し上げようと考えていた。編集者ふたりを交えた丁々発止の勝負は翌日の昼前まで闘われたが、結果は憶えていない。都合のわるいことはすぐに忘れてしまうのが、わたしの数すくない美点である。
 わたしは東京へ行くたびにイオリンと卓をかこむようになった。イオリンの麻雀は口数が多く、沈めば泣きが入り、浮けば鼻唄が出る。形勢が分かりやすくて明るい麻雀だから、とても愉しい時間を共有できる。イオリンは大阪人らしく、ものごとに格好をつけることがなく、いつも〝笑ってやってください〟の自虐的サービス精神にあふれている。こういうカラッとした隙だらけの雀士はそう多くいるものではない。
 イオリンは直木賞受賞でツキをつかい果たしたのか、当時はめちゃくちゃ麻雀が弱かった。わたしや白川道はここをチャンスとばかりにイオリンを麻雀に誘い込み、身ぐるみ剝いだ上にケツの毛までむしりとった。イオリンは編集者のあいだで〝F資金〟といわれるまでツキの坂をころがり落ちたが、半年ほどで厄落しが終了するや、ひとが変わったように反攻に転じた。わたしとイオリンとの勝負はほぼイーブンになり、F資金と呼ばれたころのかわいさは消え失せてしまった。イオリンは基本的に麻雀が巧くて強いのである。

 ところで麻雀に限らず、競輪競馬やカジノなど、ギャンブルはそのひとの性を浮き彫りにするとわたしは考えている。吞む、打つ、買う、のうち、打つに傾いている人間は基本的に〝楽して金を稼ぎたい〟〝遊んで金儲けしたい〟と、セコい望みをもっていて、ここに人間的な弱みと隙がある。なんというか、わたしはそういう隙だらけの人間が大好きで、イオリンなんか、その典型だと感じるのである。むろんイオリンはまっとうな常識人だからコアの部分は強固だが、それをつつむもろもろのものは融通無碍でとても柔らかい。
 イオリンとブンガクの話など、めったにしないが、
「イオリンの小説の主人公て、みんなストイックやね」そんなことをいったことがある。
「本人そうじゃないからね、かくありたいという憧れかな」
「あのストイックさが小説に一本、芯を通してる。おれなんか安請けあい友の会で、いつも適当に話を合わしてるけど、あとでえらいめにあう」
「いや、おれもこの範囲でやろうと思ったときにブレーキ外れるケースが多いよね」
 確かに、イオリンはブレーキがよく外れる。彼は若いころの飲みすぎのせいで、ビールを四、五本飲むと、ぱったり電池が切れたように眠り込んでしまう。麻雀の途中でふいに動かなくなり、「ほら、イオリンの番やで」揺り起こすと、よろよろ牌をツモって不要牌を切り、また動かなくなる。麻雀はそこでお開きになり、雑巾と化したイオリンを雀荘に捨てて帰るわけにはいかないから、メンバーの誰かがイオリンを背負ってタクシーに乗せるはめになる。わたしも一度、地階の雀荘からイオリンを担ぎ出したことがあるが、階段の途中で腰くだけになり、向こう脛をいやというほど打った。なにしろ、人事不省のコンニャクのような人間はやたらに重いのだ。「いまどき、こんなすごい酔い方をするひとは珍しいね」タクシーの運転手がしみじみそういったのを憶えている。

 イオリンと親しくなって、共通するところがたくさんあると分かった。彼は大阪生まれで市内の高津高校という進学校に入り、美術部に所属して油絵を描いていた。コンクールに何度も入賞するほどの腕だったという。当時のクラブ顧問のS先生はわたしの羽曳野市の家のすぐ近くに住んでいて、いまはわたしのよめはんといっしょに毎週、デッサン会をしている。わたしとよめはんは京都芸大の出身だが、高津高校からも多くの学生が入学し、イオリンを知っている連中も何人かいた。イオリンは頭がよすぎたために芸大には行けず、東大に入って学生運動と麻雀にのめりこんだらしい。ちなみにわたしは、頭の形はいいのだが中身がともなわず、芸大にしか行けなくて競馬と麻雀にのめりこんだ。
 イオリンがこんなことをいったことがある。
「美術と小説の関係って共通点があるでしょ。素材があって、構成があって、想像力があって。思うに、構成というのは、美術とすごい似たようなところがあると思わない?」
「うん。そう思う。『テロリストのパラソル』や『ひまわりの祝祭』にもそれを感じる。イオリンの小説は、もうちょっと説明するとこを刈り込んでる。これはたぶん、もっと長い文章であったはずやのに、とてもたくさん削ってるのが分かる。贅肉をぎりぎりのとこまで削ぎ落とすことで作品に緊迫感が生じるし、スピード感も増す。イオリンの構成とストーリー展開は、とにかく巧いわ」
 これは掛け値なしの感想である。『てのひらの闇』もそうだが、同業の作家として思わず膝を打つような場面がいっぱいある。なんというか、イオリンの語り口にはエンターテインメントの枠内におさまりきらない日本的な情感が色濃く漂っている。たとえばAという人物を表現しようとするとき、イオリンは決して正面からAの心理に分け入るような無粋なことはしない。Aのなにげない動作や台詞、あるいはAをかこむBやCという人物を丹念に描写することで、Aの人となりを浮き立たせようとする。主人公から端役まで濃やかな目配りをした人間のからみあいが、イオリンのいう〝美術と似た構成〟なのだろうと思う。

 このあたりで『雪が降る』の解説に入る。
『台風』──ハードボイルドでもサスペンスでも、本格ミステリーでも純文学でもない。〝上質の小品〟である。底に、人生が通奏低音として流れている。日常からほんのわずかな狂気を切りとった巧さ。センセーショナルな殺人未遂から一転して主人公の中学時代に飛び、少年の成長を描く。最後の三行が印象深い。
 わたしは高校生のころ、三日にあげず玉突き屋に通っていた。種目は四つ玉。好きこそものの上手なれ、で、あのころは五十ほど突けた。

『雪が降る』──企業小説といえるだろう。人間模様にイオリンが勤めている広告代理店の知識が生かされている。小さな起伏に大きなドラマがある。
 陽子の残した未発信のメール。〈志村さん。このまえは、あなたと最初からいっしょに「ランニング・オン・エンプティー」を見たかった。そしてきょう、もし会えれば最高のセックスをしたい。してみたい。したかった。してください。これから私は横浜にいきます〉
 ここがいい。めちゃくちゃいい。
 ビデオショップでリバー・フェニックスの『ランニング・オン・エンプティー』をレンタルしよう。

『銀の塩』──イオリンはやはり、ロマンチストだと認識した。こういう恋に憧れるが、わたしのごとき五十男には縁がない。
 ところでわたしはテニスをする。夏は軽井沢まで遠征して合宿をする。最近の女の子はスコートをはかない。ルール違反だ。

『トマト』──奇妙な味のショートストーリー。彼女がなぜ人魚なのか、人魚の世界にはなぜトマトがないのか、明確な説明のないところがおもしろい。
 「ところで、なぜわたしがあなたをトマトの案内人に選んだかわかる?」
 首をふった。人魚の発想なんてわかるわけがない。
 「それはね。あなたがいちばんむごたらしい顔をしてたからなの」
 ここでわたしは笑ってしまった。こういうユーモアが好きだ。

『紅の樹』──正真正銘のハードボイルド。『てのひらの闇』はこの作品をもとにして書かれたのだろう。ストイックな主人公。彼を陰で支える若頭。儚げな未亡人。淡い恋心。堀江の塗装工の日々に圧倒的なリアリティーがある。イオリンは仕事の描写をゆるがせにしない。
 藤原伊織の任俠を堪能した。

『ダリアの夏』──ハートウォーミングな佳品。咲きほこったダリアに、静謐、を感じた。『紅の樹』もそうだが、イオリンは子供を描くのがうまい。なぜかしらん、わたしが子供のころに観た映画、『無法松の一生』を思い出した。

 追記
 イオリンとはほんと、よく遊んだ。編集者との打ち合わせで東京へ行くときや文学賞のパーティーがあるときは、どこで聞きつけたのか一週間ほど前にイオリンから電話がかかってきて「黒焦げにしちゃるから、×時に○○へ来るように」と、下命があった。黒焦げにされるのはイヤだが、イオリンと遊ぶのは大好きなので、東京へ行くのが楽しみだった。イオリンとの麻雀はレートが高いから緊張したし、大敗もしたが、とても愉快だった。イオリンもわたしと打つのが楽しかったと思う。
 いま思えば、わたしの作家友だちのなかでは、イオリンとのつきあいがいちばん濃密だった。酒や麻雀はもちろんだが、デイトレーダーのイオリンから週に一、二回は電話があって、「インサイダー情報あり」という言葉から話がはじまった。「△△電機が近々、画期的な製品を発売するらしい」「○○工業が仕手筋に狙われてるらしい」から株を買え、と勧められる。わたしは単純だからイオリンのいうとおり△△や○○をつきあいで少し買うのだが、株価があがったためしはほとんどない(ま、あがったのは十社に二社か)。イオリンはデイトレーダーだったが、儲けてはいないと思う。
 コロナ禍で東京へ行く機会は減ったが、行ったときは必ずイオリンのことが頭に浮かぶ。「ほんまにええ男やったな」という思い出しかない。
 この齢になると実感する。「いいやつばかりが先に逝く」というのは正しい。

■作品紹介

人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説
人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。――藤原伊織『雪が降る』文庫巻末解説

雪が降る
著者 藤原 伊織
定価: 770円(本体700円+税)
発売日:2021年12月21日

黒川博行氏絶賛! 人生の切なさと輝きを描き上げた短編集。
〈母を殺したのは、志村さん、あなたですね〉一通のメールが、男の記憶をよみがえらせる。メールの送り主は、かつて愛した女性の息子だった……(「雪が降る」)。不世出の偉才・藤原伊織による至高の6篇。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000368/

KADOKAWA カドブン
2022年01月19日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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