川端康成『雪国』のヒロインには実在のモデルがいた 川端から送られた生原稿を焼き捨てた元芸者の思いとは

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川端康成 (C)新潮社

 今日4月16日は、日本人初のノーベル文学賞受賞作家・川端康成の命日である。
 今年の没後50年を機に高橋一生主演でドラマ化される『雪国』は、昭和初期の豪雪地帯を舞台に文筆家と芸者の恋を描いた名作。その文筆家は川端自身であり、ヒロイン・駒子も
モデルとなる人物が存在したというのは比較的よく知られている。名作を生みだすのに重要な役割を果たした女性の知られざるエピソードをご紹介しよう。

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ヒロイン・駒子のモデルは湯沢町の芸者だった 夫が語った『雪国』の真実

 モデルとなったのは小高(こたか)キクさん(1999年1月、83歳で没)。1915(大正4)年、新潟県に生まれた彼女は10人きょうだいの長女。家は貧しく長岡へ芸者奉公に出され、湯沢町に落ち着いたのは1932(昭和7)年のことだった。
 一方、1899(明治32)年生まれの川端は、すでに『伊豆の踊子』を発表し好評を博していた。芥川龍之介や梶井基次郎、小林秀雄らと交流する文学界のホープだった。
 その川端が執筆のために湯沢を訪れ、温泉芸者をしていたキクさんと出会う。川端35歳、キクさん19歳。1934(昭和9)年のことだ。二人の関係は深まり、その後、川端は数度にわたり湯沢を訪問。『雪国』の断章を発表することになる。
 いってみれば彼女は、『雪国』への貢献度ナンバー1の存在だ。

 キクさんについてはこんな証言がある。小説に登場する旅館のモデルとなった「雪國の宿 高半」の女将、高橋はるみさんによると、

「キクさんは色白で綺麗で、売れっ子の芸者さんだったそうです。といって、媚を売るような女性ではなく、むしろ気丈な人だと聞いています。会話の機転もきく明るい女性。晩年、病院で読書中に、“恋愛小説でも読んでるの”と看護師に聞かれ、“恋愛は読むものじゃなくて、するものよ”なんて切り返したそうですから」
(「墓碑銘 『雪国』駒子のモデル 小高キクさんの晩年」:「週刊新潮」1999年2月18日号より加筆・修正して引用。以下コメント引用はすべて同記事より)

 てきぱきした女性で一途、無類の本好き。懐中電灯片手に夜遅くまで読みふけるほどだったという。
 キクさんの夫の久雄氏も言う。

「本当に川端先生を愛していたんでしょう。早く会いたいばかりに、先生が起きるのを待てず、雪の深い崖をよじ登って部屋へ行ったそうです。寝てるうちから火をおこしたり、湯を沸かしたり、いろいろ世話をしてね……。純粋で大変な情熱家なんですよ。家内の持っていた『雪国』には、気に入らない箇所に、“こんちくしょう”なんて書き込みがあった。感情を直接ぶつけていたんですね。私には全部話してくれました。小説とはいえ、あれは殆ど実際の話なんです」

 そうなると、どこまでが「モデル」なのか。そもそも許可を得て書いたのか。現代ならば「プライバシーの流出問題」が取りざたされそうな話なのだが……。
 じつは彼女は、小説のモデルになっているとは思いもしなかったようだ。作品発表後、初めてそれを周りから指摘されて知ったのである。

「相当、癇に障ったようです」(久雄氏)

 その後、川端からは詫び状と第一回目の生原稿が送られてきたものの、芸者をやめる時、日記などと一緒に全部、焼き捨ててしまったという。

「湯沢を出る時に持っていたのは、本だけでした」(久雄氏)

 潔癖で芯が強かった彼女は、芸者をやめてからは、夫とともに縫製や和裁の仕事をする穏やかな人生を送った。川端のことを自分から話題にすることも殆どなかったが、 川端が亡くなる直前、二人で対談する企画が持ち込まれたことがあった。
 この種の話はすべて断っていたのに、なぜかこの時だけは承知したという。
 結局、実現しなかったが、もし再会していたら……二人は何を話しただろうか。川端の死去から27年後、キクさんも亡くなる。

〈ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから〉(『雪国』より)

 駒子にそう言わせた川端の死から、50年の月日が流れた。

Book Bang編集部
2022年4月16日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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