真珠湾攻撃に参加し「日本人最初の捕虜」となった海軍軍人とは? GHQが手記を検閲した文書も初公開

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23歳で真珠湾へと向かった酒巻和男

月刊『新潮』(新潮社)は1904年に創刊された文芸誌だ。最新の4月号では、第二次世界大戦の敗戦後で日本がまだ連合国の占領下に置かれていた1949年の、GHQによる検閲文書の一部が初めて公開されている。
(※GHQとは、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部。最高司令官はマッカーサー)

 GHQが起草を推進した日本国憲法は1947年に制定され、「検閲は、これをしてはならない」と言論・表現の自由が保障されたはずだった。しかし新聞、出版物はもとより郵便に至るまで、当時ありとあらゆる言論がGHQによって検閲されていた。

 GHQが特に神経を尖らせたのは、戦争関係の記述だ。

「1949年7月号に掲載された酒巻和男の手記『捕虜第一号』に英訳のサマリー(概要)が付けられており、検閲されていたことがわかりました。この号の執筆者には、志賀直哉、檀一雄、坂口安吾など名だたる文豪がいましたが、英語のサマリーが付いたのは酒巻和男だけのようです」(編集担当)

 どうして酒巻和男がGHQに目を付けられたのか? それは、『捕虜第一号』という手記の題名通り、彼が太平洋戦争における最初の日本人捕虜だったからだ。

日本人最初の捕虜からトヨタの外国法人社長に上り詰めた波乱万丈な人生


実際にGHQが酒巻和男の手記を検閲した文書

 酒巻和男は、1941年12月8日の真珠湾攻撃に参加した海軍軍人だ。当時23歳で特殊潜航艇の搭乗員となったが、座礁したため、時限爆弾で潜航艇を爆破。脱出するも気を失った状態でハワイの海岸に漂着し、日本人最初の捕虜となった。

 取り調べでは「不運なる酒巻は捕虜となったが立派に死んだ。これだけ日本海軍省へ通知してくれればそれで結構である」と言い捨て、「射ち殺して貰いたい」と死を懇願。その後も「殺してください」と繰り返したが、許されなかった。

 1942年3月にアメリカ本土へ移送された後、収容されたキャンプで捕虜の取りまとめ役となり、翻訳・通訳としても働いた。各地のキャンプを転々とする中、ミッドウェー海戦、サイパンや硫黄島などからも捕虜が続々と送られてくる。酒巻本人も、新聞やラジオの情報から、敗戦を予感するようになったそうだ。

 敗戦後の1946年にアメリカから帰国し、トヨタ自動車に入社。最後はトヨタのブラジル現地法人の社長まで勤め上げ、1999年に81歳でこの世を去ったのだった。

 この数奇な運命を辿った酒巻和男は、山崎豊子の遺作『約束の海』主人公の父親のモデルになったともいわれている。

いまロシアで奪われる言論「ポケモンGO」を教会でプレイし有罪判決

 『新潮』4月号で検閲文書を掲載した特集「言論は自由か? 戦前を生きる私たちの想像力」では、ここ30年で300人のジャーナリストが殺害されたといわれるロシアに関するレポートも掲載。ロシア文学者の奈倉有里が、プーチン政権下でいかに言論が奪われていったかを詳述する。プーチンがしどろもどろになったロックミュージシャンとのやり取り、ゲーム「ポケモンGO」を教会でプレイする動画をYouTubeで公開して有罪判決が下された21歳の男性、劇薬「ノビチョーク」を盛られて毒殺されそうになった文芸批評家など、言論が消滅していく様を伝える圧巻のレポートだ。

 また、日本の検閲の歴史を振り返る紅野謙介(日本近代文学)やミャンマーで拘束された経験をもつ道傳愛子の寄稿に加え、作家の村田沙耶香に東山彰良、元自衛隊員で作家の砂川文次が、創作小説で言論の自由というテーマに迫っている。

 SNS時代だからこその難しさもある言論・表現の自由だが、当たり前に存在するものではないということを、今一度見つめ直す時かもしれない。(了)

新潮社 新潮
2023年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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