吉田修一が悪と欲望を描き尽くした極限の黙示録 『湖の女たち』試し読み

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「お父さん、まだ焼酎飲むん? ごはん、まだいい?」
 佳代は冷蔵庫から鰺茶漬けのパックを取り出し、茶碗半分ほどの白米の上に載せると、熱湯を注いだ。わざわざ通販で長崎から取り寄せている茶漬けパックで、真鰺に熱湯をかけると身が白くなり、鼻をくすぐるような風味が立つ。
 祖母の寿子はあまり洋食を好まなかったが、この鰺茶漬けのパックで作ったパスタだけは好きで、一人分をペロリと食べた。
「お父さん、ごはんは?」
 食卓に戻り、佳代は改めて訊いた。グラスに焼酎を注ぎ足していた父の正和が、「まだええわ」と首を振り、「……それより、その刑事もなんか頼りないな」と、話の続きを始める。
 席を立つまえ、佳代は今日もみじ園で起こった出来事の顛末を正和に話していた。正和は百歳になる入居者の死因が自然死だったのか、はたまた医療ミスだったのかについては、さほど興味を持たなかったが、娘が刑事に取り調べを受けたことを面白がり、「へえ、警察手帳、見せへんの? アリバイ的なことは聞かれへんの?」と、佳代の短い話が終わったあとも質問を続けた。
「頼りないというか、その刑事さん、ものすごい疲れてはったわ。そりゃ、そうやで。同じ質問を二十人にも三十人にもするんやろうし」
 佳代は鰺茶漬けを啜った。
「いうても、容疑者としての濃淡はあるやろ。おまえみたいにまったく別の班の者と、その死んだ爺さんを担当しとった人らとは調べ方もちゃうやろし」
「容疑者って……」と佳代は笑った。
 焼酎を飲む父親と鰺茶漬けを啜る娘のいる食卓では、容疑者という言葉は馴染まない。
「お父さん、私、今日は連続勤務明けやから早よ寝るからな。グラスや皿、そのまま流しに置いといてくれたらいいから」
 席を立とうとした佳代に、「あ、そや。引越しのことやねんけどな」と、正和がどこか言いにくそうに声をかけてくる。
「もう業者さんに頼んだん?」
「お父さん一人分の荷物なんて、わざわざ業者に頼むほどのもんちゃうやろ」
「それでも、自分たちでやるとなったら、また手間やで。この暑い最中に。……静江さん、なんて言うてんの? 一緒に暮らすって決めたんやったら、お父さんもちゃんとしてあげな。小学生の修学旅行ちゃうんやし、下着と歯ブラシだけってわけにもいかへんで」
「そんなん、分かってるわ」
 正和がいつものように少し腹を立てたところで、佳代は自分の食器を流しに運んだ。
 高校時代の同級生だという静江と正和が一緒にいるところを初めて佳代が見たのは、祖母の通夜の席だった。それまでにも正和の口から頻繁に彼女の名前は出ていたし、一緒に温泉旅行などにも行っていたので、ある程度のことは分かっていた。
 祖母の葬儀では、元々世話好きらしい静江は、正和の喪服の支度から仕出しの手配まで何かと手伝ってくれた。佳代はそんな静江の少し出過ぎともいえる気遣いに嫌な気持ちになるどころか、「ああ、この人は本当にお父さんを大切に思ってくれてはるんやろな」と素直に思った。
「一緒に暮らしたらええのに」と、最初に口にしたのは実は佳代で、正和の方は、「そんなん、今更ええわ」と、ひどく照れていたのだが、実は静江からもその話はすでにあったらしく、「……もしそうしたら、お前はどうすんねん」とポツリと言う。
 正直なところ、佳代はそこまで考えていなかった。だが、もしそうなるのであれば、正和がこの家を出て、どこかで静江と暮らすというイメージしかなかった。もちろんここは父の家だが、早世した母と祖母から受け継いだこの台所は紛れもなく佳代のものであり、静江がそこに立つ姿など想像できない。
「お父さんが静江さんのマンションに行けばいいやん」
 佳代は当然とばかりにそう言った。すると、正和たちの方でも似たような話をしていたようで、「まあ、向こうもその方が気ぃ楽らしいわ」と答え、「……でも、お前はそれでええんか?」と佳代を心配する。
「本当は私が出ていくのが筋なんやろうけどな」と佳代は答えた。
「筋なんか、どうでもええねん」
「でも、静江さんもほんまにそっちの方が気ぃ楽やと思うわ。嫌やもん、人んちの台所に立つって」
 もう二十年もまえに妻を亡くした男と十二年前に離婚した女が、還暦を前に新しい生活を始める。成人した娘がとやかく口出しする類のことではない。
 八歳の時に母を亡くした佳代は祖母の寿子に深い愛情のもとで育てられた。幼いころから祖母と共に家事をこなしてきた佳代にとっては、正和というのは父でありながら、どこかこの家の一人息子という感じもあった。その一人息子が独り立ちして女性と暮らす。父を失うという感傷が一切ないのは、このためらしかった。
 その夜、佳代はいつもより早くベッドに入った。仮眠が取れたとはいえ、連続勤務の疲れは重く、シャワーを浴びて髪を乾かしながらもすでに痺れるような眠気があった。暑さで目を覚ますのが嫌で、普段はつけないエアコンにタイマーをかけ、代わりに夏毛布を押入れから引っ張り出した。いくつか届いているLINEやショートメールも確認しなかった。
 電気を消して目を閉じると、すぐに眠りに落ちそうだった。ただ、その瞬間、なぜか濱中と名乗った刑事の顔が浮かんだ。
 入居相談室での取り調べのあと、思い出すこともなかった顔だった。正和に話しているときでさえ忘れていた。それが今になってなぜか鮮明に浮かび上がってくる。次の瞬間、佳代は急に体がゾクッとして、夏毛布を首筋まで引き上げた。自分があの刑事の顔を忘れていたのではなく、無理に思い出さないようにしていたことに、まるで他人事のように気づいたからだった。

続きは文庫版でお楽しみください

吉田修一
長崎県生れ。法政大学卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、10年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、19年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。ほかに『長崎乱楽坂』『橋を渡る』『犯罪小説集』『逃亡小説集』など著書多数。2016年より芥川賞選考委員を務める。映像化された作品も多く、『東京湾景』『女たちは二度遊ぶ』『7月24日通り』『悪人』『横道世之介』『さよなら渓谷』『怒り』『楽園』『路』『太陽は動かない』に続いて『湖の女たち』が映画化され、2023年11月全国公開予定。

新潮社
2023年8月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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