昭和天皇がラジオDJとして歴史を語る 高橋源一郎、6年ぶりの長編小説『DJヒロヒト』 芥川賞作家・町屋良平が語る

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DJヒロヒト

『DJヒロヒト』

著者
高橋 源一郎 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104508037
発売日
2024/02/29
価格
4,180円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

現代を経由しない歴史はない

[レビュアー] 町屋良平(小説家)

〈MY、『パパ活』って知ってるか? そうか知らんのか、スマホで『旦那』を見つけるんだよ、昔でいう『エンコウ』なんだが、いまはそう呼ぶらしいな、おれは二回ほど利用したがどちらもロッポンギの大きなホテルで待ち合わせたよ、もしかしたらホテルと組んでるんじゃないかね、せっかくうまい天ぷら屋に連れていったのに、こちらの話なんか聞きやしない、料理が出てもまず写真に撮るんだぜ、なんでって訊いたらインスタにあげるからって、もうこりごりだよ、〉

 出た。厳密にはそれまでもたびたび出ていたのだが過去のことを書きながら今の語彙をポップに混ぜ込むこの文体(スタイル)。高橋の小説でしばしば登場する、まったき史実に基づく物語をいま読んでいると油断しているまさにその瞬間にこそふと顔を出す「現代」。今となってはこのような手法自体が高橋の専売特許というわけではなかろうが、「純文学」の作家において高橋ほどその批評性について思考し、作品に不可分の要素として昇華する者は他にないと言える。この特異な時間軸のミックスされるような感覚は『DJヒロヒト』というその標題にもよく表れている。現在と過去を往還する歴史をDJプレイするかのごとく、生きる現実とまた違う時間の流れを作る。紛れもない「小説」の時間をつくる。「過去はいまであり/いまは過去である」というような、本作を読むという行為の中にしかありえない「過去/現在」の多層性である。あるいは「歴史は現在であり/現在は歴史である」といえるような、小説の中にしか感じ取れない稀有な「/(と同時に)」が現出する。過去のある地点においては規定されえないもの。われわれはある意味過去に対し手ひどい暴力を振るっているかのようでもある。本作に現出する時間はまっすぐに当時を描くリアリズムとはまた別のものである。過去から現在を包有し、さらに現在を包有した過去に巻きこむブーメランめいた運動。そのように小説の描くべき歴史はいまと現在をともに含み込み成立する。いま過去を償うのではなく、いま償うべき過去を生きるかのように。

 本書では名だたる作家たちの綴った大震災や虐殺や従軍体験にまつわる資料、「ことば」が過去の厚みを担保しつついまに迫る。そこにはこれまでの「戦争文学」でほとんど書かれてこなかった従軍慰安婦としていまなお奪われつづける尊厳にかかわる「ことば」もある。だが中国の地で非戦闘員である百姓を殺したと確信する武田泰淳は〈この頃にはもう、ことばというものを信じてはいなかった〉。時に「ことば」を信じることができなくなった者の「ことば」は他者が担う。泰淳の口述を百合子の手が著すかのごとく。かような複数性にしか「文体」は宿らない。この文脈において「文学」とは「ことば」が信じられなくなった状況を「ことば」で書く、「ことば」によって「ことば」が信じられないことを証す状況そのものを指す。この不可能性に、前述したいま償うべき過去を生きるという不可能性がぶつかり、弾けるごとくに相殺されるかぼそい可能性に賭けて成立するのが高橋の「小説」である。ときにいくつもの違う「フィクション」へと横断するのも、夢やフィクションをもふくみこむものが時代であるからある種当然のことではあるが、こうした大胆な跳躍によるいくつもの越境の連続によってようやく、いまのわれわれにとって周知の歴史が立体的に浮かび上がる。だが、なぜ周知かといえば「ことば」があるからである。教科書的歴史というのは「ことば」によって周知であるからこそ存在するものにすぎないのである。しかし高橋は周知の史実を現代から転倒させる。フィクションとともにその時代のレコードされたテープを巻き取るように往還し含み込む手つきによって生まれる特異な磁場から、まるでいまのわれわれには周知であるからこそ過去にそれが起こったかのような……これは高橋のとくに『日本文学盛衰史』以降ときおり抱かされる特異な感覚である。歴史を記すということはつねにこうした転倒を含むものかもしれない。本作は歴史のほんとうを、現在までに蓄積されてきた周知を超越した方法で記す、その試みそのものとしてある。

 著者インタビューによって本作が『ヒロヒト』の第一部にあたることが明言されているように、太平洋戦争へと進んでいく時流における昭和天皇の立ち位置を含め、その時代全体を捉えるための必要なピースがまだ残されていることが作品そのものから伝わってくる。記述ごとの有機的接続も緩められている印象があり、かえって本作に響く声がもっとはるか遠大なところへ届く予兆がある。「ヒロヒト」によってサンプリングされる声は悲痛でありながらそれでも歩みを進めさせる不思議な力を呼び覚ます、この小説という場でしか響きえない声である。本作によるとアメリカに先んじて原爆を開発しようとしていた理化学研究所の仁科芳雄はかつて開発の鍵となるアイデアをアメリカ側と共有していた。そして焦土と化した広島に降り立った仁科は許しを乞う。〈すまないすまないすまない。どうかわたしを許してほしい。放射線を浴びますから、たくさん浴びますから、どうかそれで許してください。〉

 それにしても、改めて覚えるのは膨大な書物を読み込むというすぐれて批評的な営為が、しかし紛れもなく批評ではない小説としてしかありえない散文として書かれるということの驚異である。高橋は書くよりはるかに読む作家であり、これは他の者とて変わらないことであるが、なにを書くかではなくなにを読むかが作家のスタイルを決める。「いま」書かれゆくものと「過去」書かれたものとを交感させつづけることで初めて作家の文章は文体となる。本書ではあらゆる形式が混在するが、それらを有機的に関係させる「ことば」の擦れ目をもって時代を浮かび上がらせるその蓄積により、たとえばわれわれは自分がしていない虐殺を自分がしたこととして読む。本書は「小説」という謎をさらに未来へと接続するだろう。現状高橋の小説的蓄積を文芸誌上のいわゆる「純文学」の作家として受け継ぐ人間はほぼおらず、優れた作家はジャンルを創設すると同時に終わらせるという言葉があるように高橋は作風を創設しては終わらせる。しかし戯曲、現代詩、SFにおいて書かれる言葉に高橋の影響が散見されるように、読むという行為によって接続できるわずかな可能性はつねにあるはずだ。われわれが高橋の影響を取り込むことに失敗し続けるのは、氏の出発点といえるそれまでの批評と詩の影響からとくに「純文学」が袂を分かたんとし続けていることを表しているのではなかろうか。

河出書房新社 文藝
2024年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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