『半席』
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青山文平 “フルスペックの人間”を描きたい
[レビュアー] 青山文平(作家)
直木賞受賞後第一作『半席』の刊行にあたり、青山さんに自問自答の形でエッセイをお書きいただきました。
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――書く時代が絞られていますね。十八世紀後半から十九世紀前半。なぜですか。
これまでは、そこが、武家にとってキーワードがない時代だから、とお答えしてきました。キーワードがないということは、一人ひとりの武士にしてみれば、動くべきお手本がないということですね。いわゆる叩き台がない。で、それぞれが自分の頭と身体で考え、自分で行動しなければならない。その、それぞれの解に、 人間 ・・が出てくるので、その時代を描いているとお答えしてきた。
――「これまでは」ということは、いまは違うと。
いえ、理由は一つではないということです。その時代に焦点を当てる別の理由もある。今回はその二番目の理由を語らせていただこうと思って、それはつまり、成熟、です。江戸時代のなかで、いちばん成熟したのが十八世紀後半から十九世紀前半なんですね。この時代は表面的な動きが目立たなくて、“時代劇”的には地味なのでしょうが、それは世の中が成熟している徴(しるし)でもあるわけです。
――成熟、を描きたい、ということですか。
やはり小説の書き手ですから、結局は 人間 ・・を描きたいわけです。そのためには、時代が成熟していてほしいんですね。十七世紀末の元禄などだと、まだ幕藩体制が確立して間もない時期で、時代として若いんです。これはあくまで一般論だけれど、人はどうしても時代的制約を受けますから、時代が若ければ、そこに生きる人間も若い。もちろん、若さゆえのよさもありますが、小説として描くとなると物足りない。
――なんで、成熟していてほしいのでしょう。
たとえば、多くの人が食えない時代を想定してみてください。人々がなによりも希求するのは、食えるようになる、ということですね。当然、その時代の人間を描くと、食えるようになるための営みを書くことになる。しかし、実際に食えるようになってみると、そこはゴールではなく、むしろ、そこから食えるようになった後の人間としての問題が始まるわけでしょう。
――たしかに。
別の例えを言えば、江戸初期の東北には、“戦乱が一度あるくらいなら、七年飢饉が続いたほうがまだいい”という言い伝えが残っているそうです。武家以外の人々にしてみれば、戦国時代の戦乱には辟易していたのでしょう。そういう実社会の厭戦気分が、徳川の時代を招き寄せたという見方さえあると聞きますが、これにしても、では戦のなくなった時代がユートピアかと言えば、そんなことはありえない。つまり、ひとつひとつ問題が解決されるに連れ、それまでは封印されていた問題が浮かび出てくるわけです。
――つまりは、時代が成熟するに連れ、人間は見知らぬ問題に向き合わなければならないということでしょうか。
そういうことなんじゃないですかね。思うに、人間には人間たらしめている成分があって、ひとつひとつ問題が解決されて、時代が成熟するに連れて、未知の成分が抽出されてくるのだと思います。 人間 ・・を描こうとすれば、やはり、できればフルスペックの成分の人間を描きたい。つまりは、成熟した時代の人間を描きたいということになる。この時代を過ぎて幕末に近づくと、世の中は再び野蛮の時代に戻って、成熟から逆に遠ざかってしまうので、私としてはここしかないのです。
あおやま・ぶんぺい 一九四八年神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。二〇一一年、『白樫の樹の下で』で第一八回松本清張賞を受賞し、作家デビュー。二〇一五年、『鬼はもとより』で第一七回大藪春彦賞受賞。二〇一六年、『つまをめとらば』で第一五四回直木賞受賞。他の著書に『伊賀の残光』『約定』『かけおちる』等がある。
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