小林信彦×宮部みゆき 対談「ムーン・リヴァーの向こう側」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

対談・鼎談

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ムーン・リヴァーの向こう側

『ムーン・リヴァーの向こう側』

著者
小林 信彦 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101158341
発売日
1998/09/01
価格
565円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ムーン・リヴァーの向こう側

 三十代終わりの恋愛

宮部 里佳はきっぱりしていて、凜々しい女性ですね。主人公の男が翻弄されてしまうというか、ちょっと可哀相なぐらいの目に会うわけですが。

小林 主人公は三十九歳の男ですが、三十代の終わりの頃って、これは僕だけの感覚かもしれませんが、あんまり希望のない感じで生きているんですよ。

宮部 そうなんですか。

小林 僕自身がそうでした。二十代の終わりと三十代の終わりはそれぞれ落ち込んだりしますね。主人公の場合は離婚も経験しているし、その上、人には言えない悩みを抱え込んでいる……。

宮部 とはいえ、主人公は翻弄されながらも、そこに恋愛の醍醐味を感じているところがあるようですね。

小林 精神的には少しマゾヒスティックなところがあるかもしれない。そういうかかわり方でないと、恋愛が成立しないような人間、というふうに設定したんです。そして住んでいる場所もそんな人間がいかにもいそうな渋谷区の松濤にした。

宮部 高級住宅地ですよね。静かに暮らしていたのに、パキパキした女の子に翻弄されてしまう。そんな自分を一歩退いて客観的に見ているような主人公の視点が面白い。私はヒロインと主人公のちょうど真ん中あたりの年齢だものですから、主人公に「大人の余裕」のようなものも感じました。

小林 なるべく波風を立てないで生きようとしているのに、女の子を自分の家の敷地内に入れてしまうというのが、世間知らずですけれど(笑)。

宮部 女の子のほうも後先を考えないところがあります。わあ大胆、面白いと思いました。

小林 深川の女の子を書こうとすると、文学史的に言えば、たとえば永井荷風の深川もののイメージもあるのですが、それに縛られることもないでしょうし、きれいごとにするのも違うだろうと。……かなりわがままな女の子ですよね(笑)。

宮部 わたしの周囲にこんな女の子がいたらどうだろうって、あれこれ考えました。髪型はショートみたいだけれど、里佳のような女の子だったら、どんな服を着てどんなバッグを持つんだろうとか……。

小林 髪型がショートというのは、単純に僕の個人的な趣味なんですが、あとはどんな服装なのかとか自分の頭の中で決めてから書いていくんです。ただ、ファッションというのはちょっと時間が立つだけで陳腐になりかねないんで、なるべく書かないようにしているんですが。

宮部 読者は自由に想像しますからね。私も男の登場人物だと背広かジャケットか、ぐらいの描写しかしないことが多いです。そういうディテールは、作者が分かっている上で書かないか、あるいは読者の想像力の中でふくらませてもらうために必要な部分だけ書いておく、ということが大切なのかもしれません。特に恋愛小説や、私が書くことの多い家庭小説では、そういう細かいところが命なんだなと感じます。

小林 たとえば昭和十年代を舞台にする小説だったら、逆に非常に細かく描写したほうがいいと思うんですけれど、現在進行形の場合は、あまり詳しくないほうがいいのかもしれない。

 臨海副都心計画への疑問

宮部 現在進行形といえば、臨海副都心計画も小説の背景としてでてきますね。

小林 この小説を書きはじめたのは去年の十月なんです。青島幸男さんが都知事になるなんて誰も想像していなかった頃です。僕自身はもともと根本的にああいう計画には反対でしたけれど……。主人公のコラムニストは、その計画を美化しようとする雑誌にとりこまれそうになる。ただ、宮部さんのいらっしゃる江東区では賛成する人もいるでしょう。

宮部 新しい企業を誘致しようという動きは確かにありますね。でもあんまり都会化してしまって、われわれが出ていかなければならないのは嫌だ、という感情は根強くあります。私自身も東京湾に巨大な橋を架けるというのは、なんか天罰があたるような気がしてしまって嫌なんです。

小林 本当にバチがあたると思いますよ。東京湾の生態系も壊れてしまうし。しかしそういう説を唱える人がいてもバブル時代には聞く耳を持つ人がいなかった。

宮部 そこまでして開発する意味があるのかどうか疑問ですね。

小林 開発の原動力は、それが進歩だという思い込みの強さと、もうひとつは開発をすれば得をする人間がいるということでしょう。困ったものです。青島幸男さんは人形町の生まれですから、感清的にもずいぶん馬鹿げた計画だと思っていたはずです。その人形町も刻々と変貌しています。人形町の交差点から水天宮にかけての隅田川側のエリアは空襲で焼けましたが、兜町の側は焼け残ったんです。かつては目立たない町だったのが、焼け残ったために昭和初年の不思議なお風呂屋さんがつい最近までそのままあったりしました。それが今は突然、大昔は武家屋敷だったところにホテルが建ったりしてますからね。人形町にホテルが出来るなんて、昔の感覚で言えばほとんど冗談としか思えない。

宮部 下町に、突然立派なホテルやビジネスセンターがバーンと建っちゃうんです。私なんか誰が泊まるんだろうと思うんですけれど。

 土地の呪縛

小林 宮部さんの中には、深川より西側に対する憧れのようなものはありますか?

宮部 今でも隅田川を越えた西側には自分の幸せはないんじゃないか、と神妙に考えることがあります(笑)。主人公たちを隔てる「壁」としての隅田川を、私もどこかで感じているのかもしれません。川の向こう側への憧れはあるんです。環境はいいんだろうなとは思います。ただ私みたいな人間からすると、ニュータウンのように周りじゅう全部が家だったら、三日でノイローゼになりそうです。閑静な住宅街なんてもともと縁がありませんでしたから。店屋があり、床屋さんがあり、銭湯があり、紙工場があり、材木屋があり……という、騒々しい生活音があったほうが安心なんです。

小林 僕の生まれた旧日本橋区両国は、明治以降は、柳橋の予備軍という性格もある地域なんです。だからまず芸者屋さんがあって、呉服屋さんもあり、それから鬘屋とかもあった。うちは和菓子屋でしたが、隣は煙管屋です。ところが、僕が三十歳を過ぎた頃から、高度経済成長で倉庫とオフィスが進出してきて、住もうと思っても住みようのない街になってしまった。深川とはずいぶん違います。昔いた人はほとんどいなくなってしまった。

宮部 深川は人の出入りが少ないですね。私の同級生もだいたい残ってます。地元の人と結婚してそのまま動かないという人も多い。地方の人と結婚しても旦那の方を引っ張ってきちゃう人すらいます。吸引力の強い土地なんです。

小林 小説を書き終えたのが五月なんですが、最後の部分の取材で本所のあたりを歩きました。自分がもう十歳ぐらい若かったら住んでもいいな、と思いました。

宮部 下町には下町の人間関係のうざったさというのも確かにあるんです。私ももう嫌になった、おん出ちゃおうか、と思ったこともあるんですが、なかなか縁は切れません。

小林 僕も十代の終わり頃というのは、今の東日本橋に住んでいるのが嫌でたまらなかったですね。母親の実家が青山にあったんで、要するに山の手に住みたかった。住んでしまうと別にいいこともないんですが。

宮部 好むと好まざるとにかかわらず、土地と自分の血というのはつながってしまっているんですね。特に今の若い方にはそういう関係を嫌う傾向が強いと思うんですけれど、いくら嫌っても、たとえば親との血のつながりが切れないのと同じで、たとえ離れて住もうが、土地の呪縛からは逃れられないんだ、というのを私も何かのかたちで書きたいと思っています。

小林 やっぱり人間を呪縛する土地の霊のようなものは、ありますね。旧日本橋区にもそれはあったと思います。戦争中に空襲が始まった時、中野へ疎開したらどうかという話もあったんです。周辺の人達で中野へ行った人は多い。でも中野へ行くというのは要するに環状線の外、山手線の外側へ行くわけですから、遥かに遠く思えるわけです。一方、うちの親父は「いや、ここは焼けない。ここは爆弾は落ちない」って断言して疎開を拒否した。そんなことは状況を考えれば絶対ありえないことなのに、土地を信じていた。親父も自分の土地から離れられない男でした。

宮部 小説のヒロイン、里佳もきっと自分の生まれ育った町に帰ってくるんでしょうね。戦後から現在までの土地の因縁や土地の再開発に絡む人々の思惑などから逃れて、いったん距離を置いてみたいという気持ちだったのではないでしょうか?小説を通読させていただいて、彼女はきっと帰ってくると私は思いました。

小林 そう言っていただけると、本当にありがたい。できるだけ〈開かれた〉結末にしたかったのです。

宮部 男の主人公も、土地の精霊に引き寄せられていったのかもしれませんね。

小林 里佳は今を生きる行動的な女の子であると同時に、土地の精霊、スピリットの化身のような存在としても書きたかったので、そう読んでいただけると嬉しいです。

宮部 また、ふたりは再会するんだ、と私は信じています。

小林 小説の中で、ふたりを深川不動に行かせないでおいて良かった(笑)。

新潮社 波
1995年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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