翻訳家が貪り読んだ、井上靖文学の真髄を味わえる自伝的小説3選

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“井上文学”の源流を求めて

[レビュアー] 高見浩(翻訳家)

高見浩・評「“井上文学”の源流を求めて」

 自伝小説の傑作という評判はずいぶん早くから聞いていたのだが、『しろばんば』というタイトルにいま一つ馴染めずに敬遠していた。が、あるときふと読みはじめて目を瞠った。こんなに面白い小説だったのか! 目から鱗の思いで貪り読んだことを覚えている。

 舞台は大正初期の伊豆湯ヶ島。作者の分身である洪作少年は、天城山麓のこの素朴な山村の土蔵で、おぬい婆さんと暮らしている。おぬい婆さんは実の祖母ではなく、村の名士だった洪作の曾祖父に囲われていた女性だ。

 この作品、まず異彩を放っているのはこのおぬい婆さんだろう。血の繋がりのない洪作少年を、おぬい婆さんは溺愛する。何があろうと“洪ちゃ”にまさる子供はいない、と日頃から村中に触れまわっていて、その、人を食った、独特の毒を含んだ言動にはつい笑ってしまう。たとえば――学級の成績で常に一番の洪作が初めてその座を光一という少年に譲ったことが通知表でわかったとき、おぬい婆さんは憤慨してこう言い放つのだ――「ふざけた真似をするにも程がある。坊が温和しいと思って、坊をさしおいて光一を一番にしおった! 大方泥棒でもして金廻りがよくなった木樵の子ずら。坊、ここに居な。婆ちゃが学校へ行って文句言って来てやる」

 この婆ちゃの盲愛ぶりに、ときに戸惑いながらも、洪作少年はすくすくとおおらかに育ってゆく。遊び仲間の悪童たちとの日々の明け暮れが実に細やかに、興趣豊かに描き込まれてゆく。そして、そうした明け暮れを貫く柔らかな一本の糸のように、本家で暮らす、母の妹の、さき子叔母に寄せる洪作の仄かな慕情が点綴されていくさまが微笑ましい。

 さすがだと思うのは、洪作をめぐる多彩な登場人物の描写の秀逸なこと。本家の曾祖母や祖母、小学校長をしている伯父夫婦など、それぞれに訛りのある口調が微妙に使い分けられていて、容姿や所作の違いまでが、ありありと眼前に浮かんでくるのには唸らされてしまう。

 そうした大人たちに比べると、本書における洪作はまだ幼いせいもあってか、性格描写もやや淡白にすら感じられるくらいだ。では、その後洪作のキャラクターが一人の若者としてどう開花してゆくのか。それを知りたい読者には本書の続編『夏草冬濤』、『北の海』が待ちかまえている。『夏草冬濤』ではとびきり個性的な級友たちとの交遊を通して不羈奔放に育つ洪作の中学生時代が描かれ、『北の海』では金沢の四高柔道部に誘われた洪作が“練習量がすべてを決定する柔道”の面白さにのめりこんでいく姿が描かれる。この二作に横溢しているのは作者の他の諸作ではあまりお目にかかれない、巧まざるユーモアのセンスだろう。なかでも、洪作をずぼらな“ごくらくとんぼ”と呼びながら温かく見守る宇田先生とのやりとりなど、何度読み返しても噴きだしてしまう。だが、敢えて言えば、『しろばんば』に流露している一種文学的な香りはこの二作には見出しがたい。理由はと問われたら、『しろばんば』の作品世界に心地よい緊張感を生ましめていた存在、つまりおぬい婆さんが、もうそこにはいないからと答えたい。それほどまでにおぬい婆さんの個性はこの連作を通じて際立っているのだ。自分を無にして愛する者に献身する――その徹底ぶりにおいて他に類例を見ない一人の女性像を、井上靖は愛惜をこめて見事に彫琢してみせた。それはおぬい婆さんに体現される、逝きて還らぬ一つの時代相そのものへの鎮魂歌でもあるかのようだ。

 この秋もまた伊豆まで車を飛ばして洪作の故郷、湯ヶ島を訪ねてきた。遥か遠い日、悪童たちが無心に遊びまわっていた路地を歩くと、日頃都塵にまみれている心の澱がきれいに洗い流されるからだ。すこし離れた昭和の森の伊豆近代文学博物館ではおぬい婆さんのモデル、おかのさんの実物写真に接することもできる。柔和な中にも芯の強さが窺われる老女の面影を前にすると、井上靖自身が回想記『幼き日のこと』の中で語っている言葉がきまって甦ってくる――「私は今でも、おかのお婆さんの墓石の前に立つと、祖母の墓に詣でている気持ではなく、遠い昔の愛人の墓の前に立っている気持である。ずいぶん愛されたが、幾らかはこちらも苦労した、そんな感慨である」

 さもありなんと心から思う。

 ※[私の好きな新潮文庫]“井上文学”の源流を求めて――高見浩 「波」2019年12月号より

新潮社 波
2019年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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