底惚れ 青山文平著
[レビュアー] 細谷正充(文芸評論家)
◆染まらない男のぶれない芯
本書を目の前に置いて、どこまでストーリーを紹介しようか悩んでいる。というのも予想外の展開が、大きな読みどころになっているからだ。何も知らないまま本を開くのが一番いいのだが、それでは書評にならないので、簡単に粗筋を書いておこう。
物語は主人公の“俺”の一人称で進んでいく。一年限りの武家屋敷勤め(一季(いっき)奉公)を重ね、四十を過ぎた男だ。未来に希望はないが、さりとて生き方を変えるつもりもない。長年にわたり江戸で暮らしているが、江戸に染まりきらないところがある。
そんな男が、隠居した藩主のお手付きになった下女・芳(よし)の、二度と戻れぬ宿下がりの同行を命じられた。屋敷の用人から言外に、芳を殺して金を奪うように焚(た)きつけられる男。心を揺らしながら芳の故郷の相模を目指す。
という発端から、サスペンスに満ちた道中記が始まる。だがすぐに思いもかけない事件が起こり、男はひとりで江戸に引き返すことになるのだ。この展開に驚いたが、ストーリーはさらに意表を突いてくる。行方の分からなくなった芳を、ある理由から捜し出そうとする男だが、方法が破天荒だ。しかも、それを実行することにより、男の人生が大きく変わっていく。変転きわまりない男の姿に、強い興味を抱かずにはいられないのである。
さらに登場人物の少なさにも注目したい。主人公と芳の他の主要人物は、銀次という男と、信という女しかいない。だが、だからこそ主人公の心情を、じっくりと掘り下げられたのだろう。江戸に染まりきらなかったのは、男の心に芯があったからだ。さまざまな垢(あか)の付いた芯は、しかし芳を一途に捜し続けることで磨かれていく。しだいに輝きを増していく男の芯に、魅了されてしまうのだ。
なお終盤には、ミステリー的なサプライズもあり、それを経て物語は見事に着地する。ラスト一行にたどり着いたとき、いい話を読んだという満足感を得られるのだ。タイトルそのまま“底惚れ”してしまう作品である。
(徳間書店・1760円)
1948年生まれ。作家。『鬼はもとより』で大藪春彦賞。『つまをめとらば』で直木賞。
◆もう1冊
藤沢周平著『消えた女−彫師伊之助捕物覚え』(新潮文庫)。元岡っ引の版木職人が、消えた女を捜す、大江戸ハードボイルド。