義父を殺し、飛び降り自殺した母 遺書には「世の中捨てたものではない」と……凄絶な過去を持つ俳優に映画監督・石井裕也が贈った言葉

レビュー

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遠い家族 : 母はなぜ無理心中を図ったのか

『遠い家族 : 母はなぜ無理心中を図ったのか』

著者
前田, 勝, 1983-
出版社
新潮社
ISBN
9784103549918
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

母親への愛を静かに叫ぶ剥き出しの魂の軌跡

[レビュアー] 石井裕也(映画監督)


前田勝さん

 なぜ母は義父を殺して死んだのか? ひとり残された息子が事件の経緯と母親への思いを綴ったノンフィクション『遠い家族―母はなぜ無理心中を図ったのか―』(新潮社)が刊行された。

 この壮絶な手記を綴ったのは俳優の前田勝さんだ。前田さんは韓国人の母と台湾人の父の下、韓国で生まれ、趙勝均(チョ・スンギュン)と名づけられた。物心つくころに両親は離婚。韓国、台湾を経て、12歳の時に日本人と再婚した母に呼ばれて来日するも、大学入学直前に母が無理心中を図った。

 その後、舞台俳優となった前田さんは、客演の傍ら劇団を主宰し、母と事件を描いた舞台を上演。2018年にはドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」(フジテレビ系)に出演し、事件の謎を解くため、母の知人や親戚を訪ね、音信不通になっていた実父を探す旅に出た。その模様は大きな反響を呼び、同番組の放送時点での年間最高視聴率を更新した。

 事件までの日々と、「ザ・ノンフィクション」での取材過程等を前田さん自身が赤裸々に綴った手記に書評を寄せたのが、映画監督の石井裕也さんだ。映画「茜色に焼かれる」で前田さんを起用した石井監督は、凄絶な半生に何を思ったのか?

石井裕也・評「母親への愛を静かに叫ぶ剥き出しの魂の軌跡」

 息子の立場から言わせてもらえば、母は時に化け物じみて見える。たじろぎ、戦慄さえさせられる。この本に登場する母も然りだ。

 夫を殺し、自らもマンションから飛び降りて自殺していながら、その後に見つかった遺書には「世の中捨てたものではない」と息子への精一杯のエールが書かれていた。愛する我が子を含めた一切合切を捨てておきながら「世の中捨てたものではない」と堂々と遺書に書けるのは、一つの生命体の中に途方もない矛盾が内包されているからに相違ない。息子には到底理解できないほどの激しい愛情が矛盾を生み、その姿が時に化け物じみて見えるのだ。でも多分、当の母自身は自己の中に少しの矛盾も感じていないのだろう。

 これは小説ではない。自叙伝なのか何なのか。母親の勝手なのか愛なのか、ワケが分からないまま、いや何かの縁に導かれるようにして三ヵ国を渡り歩いてきた、今はまだ何者でもない男の半生が書かれた本。ウケようというスケベ心も虚栄もないのでまるで飾り気はなく、ただただ平易な言葉で母親への愛を静かに叫び続ける。また同時に自分が生きていることの事実を静かに祝福しようとし続ける。作者の名前は前田勝であり趙勝均で、韓国と台湾の血を引いていながら日本で生きていく決意をした人物だが、この本に書かれている叫びは名前や出自の特殊性からくるものではなく、むしろ普遍的根源的なものだと思う。プライマル・スクリームという原初療法によってジョン・レノンが亡くなった母親への思慕を痛切に歌った「Mother」という曲に印象はとても近い。

 本書全体に込められた前田勝さんの剥き出しの魂の叫びは、理屈を超えて激しく私の心を打った。作者は叫ぶことによって自分が生きていることを証明しようとしている。母と対決し、ここで決着をつけなければ彼はこの先を生きていけないのだ。百回頁を繰る頃に涙する本はこれまでいくつもあったが、最初の数頁から涙したのは今回の読書体験が初めてだったかもしれない。なにせ冒頭からエンジン全開で叫んでいるのだから。商業という観点から見ればカットしてもいいだろうと思われるエピソードがないこともないが、それらを適当に安易に省かなかったことで作者の生真面目な人柄と彼の苦悩の連続性が手に取るように分かった。

新潮社 波
2023年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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