<書評>『街とその不確かな壁』村上春樹 著

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街とその不確かな壁

『街とその不確かな壁』

著者
村上 春樹 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103534372
発売日
2023/04/13
価格
2,970円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『街とその不確かな壁』村上春樹 著

[レビュアー] 横尾和博(文芸評論家)

◆自己を覆う固い殻の外へ

 「壁」や「影」とは何か。私たちの心の中には確かに壁が存在する。国境、民族、階級、自分自身を覆う固い殻。人間が存在するゆえに立ちはだかる壁について、読後改めて考えさせられた。あなたにとっての壁や影とは何だろう。

 初期の村上春樹のモチーフは喪失の悲哀、諦念、自閉だ。そのモチーフはある時期から物語の結末に微(かす)かな光を見出(みいだ)すように変化した。今度の長編で遍歴を重ねた主人公にラストの希望は訪れるのか、と以前から気にかかっていた。

 本書は三部構成。第一部は本筋に至る前書きとなる。高校生の「ぼく」と年下の彼女の話。突然彼女は失踪し、おとなになった「ぼく」は彼女が語った「本当の居場所」を求めて「壁に囲まれた街」を訪れる。壁の街の人々は自分の「影」を失っているが、穏やかな日々を送る。「私」は図書館で古い夢の「夢読み」の仕事に就く。果たして「私」はその仮想世界から脱出し実世界に帰還し、彼女とは再び会えるのか。切り離された自分の「影」との対話が圧巻。

 第二部は四十代になった「私」が、仕事を辞め福島県の山間部の小さな図書館長として勤める話。まるで町に導かれたように。前任館長との「交流」をとおして生の意味を考え、自閉的な少年や苦しみを抱えた女性とも出会う。この人たちの心の影に触れるのだ。第三部では「本体」と「影」の入れ替わりや真偽が展開され、全編に村上の長年のモチーフである壁、図書館、影、地下がちりばめられる。

 「今ではない今、此処(ここ)ではない此処」を模索するのが村上作品の特徴だ。主人公は自己の深層意識を探り、心の最深部に耳を澄ませる。壁を越える力は自分を信じることである。不確かで高い壁は自分の中の意識や観念にしか存在しないのだから。「壁」「古い夢」「影」…、私たちはこれまで何を得て、何を失ったのか。村上は「人の生は吐息のように儚(はかな)く短い。一瞬の影法師なのだ」と旧約聖書「詩編」の言葉を本書に引用した。その一瞬の吐息の揺らぎを、輝きに変えるのが文学の力である。

(新潮社・2970円)

1949年生まれ。作家。『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』など。

◆もう1冊

『村上春樹は、むずかしい』加藤典洋著(岩波新書)

中日新聞 東京新聞
2023年5月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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