『ゾルゲ伝 : スターリンのマスター・エージェント』
- 著者
- Matthews, Owen /鈴木, 規夫, 1957- /加藤, 哲郎, 1947- /尾崎ゾルゲ研究会
- 出版社
- みすず書房
- ISBN
- 9784622095484
- 価格
- 6,270円(税込)
書籍情報:openBD
『ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント (原題)AN IMPECCABLE SPY』オーウェン・マシューズ著(みすず書房)
[レビュアー] 井上正也(政治学者・慶応大教授)
大物スパイ 成功と孤独
若き日のプーチン大統領がKGBの諜報(ちょうほう)員を志すきっかけになったのは、ゾルゲの映画を見たことだったという。本書は二〇世紀を代表する国際スパイであるリヒャルト・ゾルゲの生涯を描いた評伝である。ロシアや欧米のアーカイブ史料を駆使し、多くの注釈のついた五〇〇ページを超える本格派だが、ひとたび手に取ると面白く一気に読んでしまった。それは本書が、アジアとヨーロッパの情勢が強く共振した一九三〇年代後半の国際政治を大掴(づか)みにしつつ、その中で日本を拠点としたゾルゲの活動と彼の精神的孤独を丹念に描いているからだろう。
ゾルゲがスパイとして空前の成果を挙げた最大の要因は、軍人出身のオット駐日ドイツ大使と、近衛文麿のブレーンであった尾崎秀実という日独の最高機密にアクセスできる協力者の存在であった。優れたスパイはただ情報を盗み取るだけではない。ゾルゲの強みは、自ら収集し分析した情報を基に彼らとギブ・アンド・テイクの関係を築いたことだった。
実際、ゾルゲの情報はソ連にとって死活的に重要だったが、同時に彼の情勢分析はドイツや日本にとっても貴重な情報源であった。情報はそれ自体が権力となる。ゾルゲがもたらす情報を活用したオットと尾崎はより権力の中枢に近づき、それによってさらに機密性の高い情報をゾルゲは入手できたのである。
だが、いかにスパイが良質な情報をもたらしても、それを活用できるかは受け手次第である。スターリン体制下のソ連は、情報機関の縄張り争いや大粛清の影響もあって、ゾルゲの情報を十分活用できたとは言い難い。そこにゾルゲ最大の悲劇があった。彼は静かな学究生活を送ることに憧れながらも、帰国を許されず、その情報収集能力を評価されながらも、最後まで祖国から二重スパイの疑いをかけられ続けた。
著者の専門ではない日本関係を中心に不正確な記述が散見されるが、それを差し引いても、本書はゾルゲを理解する上での定番の一冊になるといえよう。鈴木規夫、加藤哲郎訳。