『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』
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『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』川上弘美著(講談社)
[レビュアー] 辛島デイヴィッド(作家・翻訳家・早稲田大教授)
半世紀ぶり 3人の距離
川上弘美の小説を読むと食欲が湧いてくる。本書を読んでいる最中も、思わず作中に出てくる「冷凍みかん」と「釜玉うどん」と「手羽先と野菜のスープ」を作って食べてしまった。
川上文学は血圧と心拍数も下げてくれる。なぜそのような作用があるのか、昔から不思議だった。やさしく話しかけられているような文体や、一歩引いたところから物事を俯瞰(ふかん)しているような登場人物たちと関係しているのだろうか、と漠然と考えていた。そんな時、「Monkey」と題されたエッセイで著者が幼少期に数年間アメリカに住んでいたことを知り、そこに何かを(勝手に)見出(みいだ)したくなった。
川上作品は「越境文学」に分類されることはあまりないかもしれない。だが、幼い時に突然慣れない言語環境に放り込まれ、その数年後には元の言語環境に戻され、2度カルチャーショックに直面するという経験と、作品に出てくるさまざまな「変身」や、目の前の世界が周囲とは少し違って見えるという感覚とは、全く無関係ではないのでは、と思うようになった。
なので、本書の紹介文を目にした時は胸躍った。語り手は、作家のわたし=朝見/アサ。幼少期に父の仕事のために移り住んだカリフォルニアで出会った2人の友人と半世紀後に東京で再会し、定期的に一緒に時間を過ごすようになる。連載小説の〆(しめ)切に追われるアサも、三姉妹の長女で手術を経たばかりのアンも、「少し名のしれた」作詞家のカズも、自らの年齢を実感し始めている。それぞれ離婚を経験しており、一人の時間を大切にするタイプだが、コロナ禍で人と接する機会が減る中、お互いの存在が大きな支えとなる。3人の距離感の描かれ方が絶妙で、作品にどんどん引き込まれていく。
野菜スープの残りで作る雑炊ではないが、読後に先述のエッセーと、コロナ禍の日々を記録した『東京日記7 館内すべてお雛さま。』(平凡社)も合わせて読むと味わいが増す。