『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』
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幼馴染ともう一度親しくなる 年を取るのが楽しみになる連作短編
[レビュアー] 中江有里(女優・作家)
年を重ねると、過去は遠くなる。自分のことなのに、他人のような子どもの自分が過去にいる。その頃の自分は何を思っていたのだろう。
同じアパートメンツで暮らしていたカズ、そしてアンと「わたし」が物語の主人公。本書は子ども時代の「わたし」のアメリカ・カリフォルニアから始まる。
結婚と離婚を繰り返し、現在は独身、六十代となった三人。それぞれ成長し、帰国した日本で会うようになった。幼い時にカリフォルニアの異邦人として過ごした共通の経験が三人を結びつけているよう。
アンが「わたし」に語る「飛ぶ経験」は印象的。
「飛んだことを、誰かに喋るのは、これが初めて」だとアン。
親しいからといって、何もかも話せるわけではない。だが、幼い時に異国で一緒にいた時間は、何か運命的なものを感じさせるのかもしれない。
名の知れた作詞家となったカズと「わたし」の関係は年に数度逢って、飲んで喋るだけ。とりとめのない会話は、海をたゆたうような心地よさ。
途中、コロナ禍に入ると、思うように人と会えなくなっていく。
三人が語るリズムと空気感が独特。幼なじみが大人になって再び出会い、もう一度親しくなっていく過程がゆっくりと、じわじわと胸に染み入る。
連作短編小説の冒頭作が本書のタイトル。プールの底のステーキとは、幼い主人公がプールに吐き出したステーキのこと。
オーバードクターとして留学していた父の研究室のボスが開いたホームパーティーでの出来事だ。ボスの娘には部屋に入れてもらえず、庭へ追い払われ、供された噛み切れないほど硬いステーキは、物悲しさとともに水の底に沈んでいく。
まだ恋を知らなかった頃の淡い記憶と今へと続く思い出が折り重なり、段々と色づいて実がなるよう。
年を取るのがちょっと楽しみになる、そんな一冊。