『列』
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天真爛漫な悪への興味
[レビュアー] 大島育宙(芸人・YouTuber)
芥川賞作家・中村文則による最新作『列』が刊行。人間の「悪」を剥き出しにする本作の魅力を芸人・YouTuberの大島育宙さんが語る。
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希死念慮真っ只中にあった私が中学1年生の年の夏、中村文則が芥川賞を取った。図書室にあった文藝春秋の誌面で受賞作『土の中の子供』を一気に読み、文体に掴まれた。遡って『銃』を手に取り、あとがきの「絶望的なものを把握しようとすることはそれだけで希望に繋がる」という言葉に救われた。こんなことを言ってくれる大人が認められる世界なら、生きていけると思った。
人間は、列に並ばずに生きられるだろうか。何のためかもわからずに列に並ぶ、名前もない人たちの描写からはじまる奇妙な小説だ。抜かし、抜かされる卑しい駆け引きが無機質に、抽象的に、淡々と続く。しかし、機械的ではない。列で待つ人々は満たされず、苛々している。堆積する負の感情がプツプツと気泡のように空に放たれ、連鎖し、バリエーション豊かな醜い行動が手際よく分類・陳列される。さながら、人間の持つ「悪」について弛まぬ思索を続けてきた作者による「人間の悪はどう発生するのか」の講義のようだ。
第二部からは突然主人公に名前がつく。彼は大学で猿の行動を科学的に研究している。ボス猿に統率された階層社会、というイメージは猿の世界の現実とは異なり、なんとなく動き出した猿にみんながついて行くことで移動が起きたりもするらしい。猿の順位や争う性質が顕在化・極端化するのは、人工の餌場に入れられた時だけだ、というのだ。第一部で描かれた「列に並ぶ無機質な人間たち」が、人に管理された猿の群れと重なる。猿が人工の餌場で野生の性質を失うように、人間もまた、列に並ぶことで人間になるのではないか、と思えてきて、恐ろしい。
小説の中で「ニホンザルとチンパンジーより、人間とチンパンジーの遺伝的距離の方が近い」という人間読者からしたら居心地の悪い科学的事実が、嫌がらせのように繰り返される。
少年犯罪に興味があったため、作家でなければ少年院の教官になっていたと中村氏は語っている。新人賞の結果発表と少年院の合格通知が届いたのはほぼ同時だった。デビュー作から一貫して人間の悪を見つめてきた作家は、内省的な暴力衝動から独裁国家、世界を支配する宗教団体、そして実在の凶悪犯罪者まで、興味という1本のツルハシで悪の岩盤を掘削してきた。そんな開拓者が人間と猿の境目に筆を突き刺すのは、必然であったと思える。
テレビ番組での紹介や海外での翻訳により爆発的にポピュラリティを獲得した中村文学の近年の読者には「新境地」と評されるかもしれない。しかし、これほど黙々と、自身の興味と世界に誠実に、同じ大地を耕し続けられる作家は稀有だ。初期から反復される「落下」のモチーフも健在で嬉しい。
私が中村文学に出逢った夏から18年が経った。彼は人間が猿のように馴らされていく世界で、国民が猿のように扱われる国で、人間が人間であるために発言を続けている。中村文則のおかげで、人を人たらしめるのは列ではなく、文学だ、と思える。