「私には母性が足りないのか」初の育児で嗚咽が止まらなくなった山口真由さんに“どんな育児書より”響いた一冊

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メンタル脳

『メンタル脳』

著者
アンデシュ・ハンセン [著]/マッツ・ヴェンブラード [著]/久山葉子 [訳]
出版社
新潮社
ISBN
9784106110245
発売日
2024/01/17
価格
1,100円(税込)

「私には母性が足りないのか」初の育児で嗚咽が止まらなくなった山口真由さんに“どんな育児書より”響いた一冊

[レビュアー] 山口真由(ニューヨーク州弁護士)


2023年に第一子を出産した山口真由さん

 山口真由さんが昨年第一子を出産した。山口さんは東京大学法学部在学中に司法試験と国家公務員I種に合格、「全優」で卒業後は財務官僚から弁護士に、ハーバード大学ロースクールを卒業してニューヨーク州弁護士登録……そんな華麗なキャリアを経て信州大学特任教授として、執筆活動に、テレビ出演にと活躍を続けている。多忙な日々の中、山口さんが30代で当時はそこまで一般的ではなかった卵子凍結の体験談を公表し、キャリアと妊活のはざまで感じた葛藤を告白したことは話題を呼んだ。

 現在、子育て真っ最中の山口さんは世界的ベストセラー『スマホ脳』の著者で精神科医のアンデシュ・ハンセン氏の最新作『メンタル脳』をどう読んだのか。同書はハンセン氏が児童文学作家マッツ・ヴェンブラード氏の力を借りて、脳科学の見地から若者向けに「自身のメンタルとの付き合い方」を解説した一冊だ。

 以下が山口さんのレビューである。

■「私には母性が足りないのか」初めての育児で自分を責める日々

 さっきまで泣きじゃくっていた子どもはようやく寝息を立てはじめた。子どもを抱いたままソファに深く身を沈める。その熱い吐息を首筋に感じる。その瞬間なぜか頬を涙が伝い落ちて、嗚咽が止まらなくなった。すやすやと眠るわが子を胸に抱く母親――これって幸福を感じるべきシチュエーションじゃなかろうか。私には母性が足りないのだろうか。わきあがる感情は罪悪感の澱(おり)となって私の心に沈殿していった。

 そんなときに読んだ『メンタル脳』はどんな育児書よりも福音となって心に響いた。文章こそ平易だが、安直とは対極の内容である。家事に忙殺され、SNSのパトロールに忙しなく本を手に取る暇がない人こそ実はメンタルが悪化しているかもしれない。なんせいま世間は表向きハッピーオーラに溢れている。インスタグラムを覗けば、優雅なバカンスや絵になる家族たちが笑顔で自己肯定感を弾けさせる。その裏で、なかったもののように蓋をされたほの暗い本音が、X(旧ツイッター)上では醜悪な攻撃となって捌け口を求めている。こんな建前と本音が大きく乖離したSNS社会を生きる世代も手に取りやすいように、本書は隙間時間でさらっと読めるようにできている。だがその内容は深遠な脳の世界へのいざないである。

■ネガティブな感情にも意義が

まず、後ろ向きな思考は悪だという押し売りにも似た雰囲気と一線を画し、本書はネガティブな感情の意義を説明してくれる。たとえば、不安は「何かがおかしい」と異常を探知する脳の警報システムとして機能してきた。だから「不安にならないで、楽しいことを考えなさい」という「空っぽの甘い言葉」で消せるようなものではないのだ。

 それに続くメッセージはさらに衝撃的だ。ネガティブな感情を生みだす脳の防御システムは現代社会を前提にしていないという。脳は危険の多かった時代に大きな進化を遂げた。すなわち、何千年も前、アフリカのサバンナで狩猟と採集をしていた人類は、生存のために脳を著しく発達させたのだ。そしてなんと、原始的な社会から様変わりした現代にあっても私たちの脳は「まだサバンナで暮らしていると思っている」のだそうだ。

 そういうことなのか。私の目からうろこが落ちて、世界がはっきりと輪郭を現す。わが子をようやく寝かしつけた私の身体はもう二度と立ち上がりたくないくらい疲れ切っていた。サバンナの狩猟採集民であれば、免疫力低下や注意力欠如で命を落とすリスクが高まるほどに。だから、全能感に駆られて動き出そうとせず、いまはじっと休んでいろと野生の本能に命じられていたのだ。そんな自分をわが子を慈しむ聖母のイメージという後付けの理性が断罪する。

新潮社
2024年1月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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