『スピノザの診察室』
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[本の森 医療・介護]『スピノザの診察室』夏川草介
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
人は命をいかに生きるべきだろうか。
『スピノザの診察室』(水鈴社)の作者である夏川草介は、自身も地域医療に従事する医師である。二〇〇九年のデビュー作『神様のカルテ』(小学館文庫)以来書き続けてきた医療小説の、最高到達点が本書だ。
主人公の雄町哲郎は京都の町中で働く内科医である。元は内視鏡手術の分野で将来を嘱望され、洛都大学の医局長にまで上り詰めたほどだったが、今は地域病院に勤務し、自転車を駆って訪問医療まで行っている。妹が病死し、まだ小学生だったその息子・龍之介が一人取り残されたとき、雄町は迷わず大学病院を辞める決断をした。龍之介を育てる時間を確保するためである。
夏から秋へ、季節の移ろいを京都の風物を通して美しく描きつつ、数々の死を見届ける職業である医師の視点から、人間観が語られていく。終末期のある患者に対して雄町は言葉をかける。「がんばらなくても良いのです。ただ、あまり急いでもいけません」と。根底には雄町が愛読するオランダの哲学者・スピノザの思想があり、自らの命を生き切るとはどういうことかという問いがエピソードの中で繰り返されていく。
雄町は名医だが、彼の神業を描くことが小説の主題ではない。患者たちの死は彼らがいかにして生きたかを映し出すための鏡であり、一つひとつの命が持つ尊さが読者の心に染み入ってくる。鮮やかで、鋭い。
時代小説作家である青山文平は、他に類例のない題材や、思いつかない角度から江戸という時代を描く。現代に生きる読者の心にも響く音色が、すべての作品で奏でられているのである。新作『父がしたこと』(角川書店)は、多くの蘭学者が弾圧を受けた蛮社の獄直後に時代が設定されている。蘭方医学がいかに発達し、主流である漢方との間にどのような軋轢が生じたかという歴史が背景で描かれる点も興味深い。わかりやすい記述に理解も進む。
とある藩で目付の職にある永井重彰は、小納戸頭取として藩主の身辺に居る父の元重から重大な秘事を告げられる。藩主には痔疾の持病があった。悪化した患部を完治させるには手術以外の手はない。幸い御領内には、全身麻酔を得意とする華岡流外科医の向坂清庵がいた。藩内では蘭学に対する忌避感が根強いため、極秘裏に清庵に執刀を任せ、永井父子がその見届役を務めるというのが元重の打ち明け事であった。
清庵は、重彰の愛児を死から救ってくれた医師である。そうした人物を中心に配することによって本作では、公私それぞれの場で人が追求すべき大切な使命とは何かという主題が語られていく。青山はミステリー的なプロットを用いる名手でもあり、最後には驚くべき真相が明かされる。読後には驚きと、自らの運命の定めるままを生きざるをえない人間に対する、深い共感が押し寄せてくるだろう。