『続きと始まり』
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その都度あらわれるもの
[レビュアー] 金川晋吾(写真家)
同じ出来事を経験しても、私たちはそれぞれの時間を生きている。
時代を描く、柴崎友香の新たなる代表作。
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本書は石原優子、小坂圭太郎、柳本れいという住む場所も年齢もちがう三人についてのその時その時の語りが積み重なることによって、コロナがあったりオリンピックがあったりした二〇二〇年三月から二〇二二年二月までの二年間という時間が立ち現れてくる。
三人はそれぞれの現在を生きていくなかで、様々な過去を思い出す。東日本大震災、阪神・淡路大震災、コロナ禍が始まった頃や始まる前のこと、家族、恋人、友人、とくに親しいわけでもない人々。時間的な距離も心理的な距離もばらばらの出来事や経験が、何かのきっかけでふっと思い出される。またあるいは、思い出そうとしてもうまく思い出せなかったりする。
私たちは「一直線に流れる時間のなかに生きていて、現在の自分はその直線の先っぽにいる」という空間の比喩を用いることで、時間という目に見えないよくわからないものをとりあえず理解できる形にしている。だが、個人的な時間の経験は必ずしもそんなふうではない。十年以上前の三月十一日のことはよく覚えていても、一年前のコロナ禍の状況はうまく思い出せなかったりする。たとえ四十年生きてきたとしても、四十年分の時間というものがどこかに存在しているわけではなくて、過ぎ去った時間はどこに行ったのだろうという気持ちになったりもする。
『続きと始まり』は、過去の時間は空間のようには計測可能な形で存在していなくて、語られているまさにその時にその都度現れてくるということを、三人の語りを通して露わにする。そしてこういう時間の経験とおそらく関係しているのだが、この小説は時間だけではなくて、他者もその都度現れてくるものであるということを経験させる。
私たちは他者との関係にも「距離」などの空間的な比喩を用いて、他者をどこかに位置づけようとする。例えば結婚とはまさにそういうものだろう。すぐ傍にいる人としてお互いを位置づける。だが、そうやって位置づけたからといって、その人が「本当に」ずっと傍にいるわけではない。結婚していようと、その人は常に自分とは異なる存在としてその都度目の前に現れてくる他者でしかない。ゆえにそこには常にわからなさがついてまわるのだが、そのわからなさを尊重することがその人を尊重することでもある。圭太郎は妻の貴美子の家族について、結婚後数年して初めて知るのだが、そうやって相手のことを知ることによって実はその人のことを何も知らないことに気がつく。知ることによってむしろ知らないということが立ち上がってくる。
三人の語りのなかに、たくさんの人たちが登場してくる。結婚相手や両親のような近しいとされる人もいれば、知り合いの話のなかに出てきただけの人、つまり会ったこともない人もいる。この小説を読むことで、私たちは多様な他者に出会うことになるが、それは個別具体的な事情を抱えた多様な他者に出会うということだけでなく、他者を経験するその仕方自体が多様であるということでもある。