『方舟を燃やす』角田光代著

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方舟を燃やす

『方舟を燃やす』

著者
角田光代 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784104346080
発売日
2024/02/29
価格
1,980円(税込)

『方舟を燃やす』角田光代著

[レビュアー] 長田育恵(劇作家・脚本家)

他者思う2人の「空回り」

 読者を共感させる圧倒的な筆力に満ちた作者が描き出す主人公たち、その一行一行から目が離せない。本作に書かれたのは、噂(うわさ)や情報から自分にとっての真実を選び、最善の行動を信じた「できれば善良であろうとした日本人たち」の弱さや愚かさ。つまり私も含めた、誰の横顔をも、この物語は鮮明に描き出しているのだ。

 本書は1967年に鳥取で生まれた飛馬と50年代に東京で生まれた不三子、それぞれの個人史を2022年まで交互に語りながら進む。年表となるのはノストラダムス、連続幼女誘拐殺人事件、バブル期、宗教団体の無差別殺人、ミレニアム、大地震、コロナ禍、貧困など、日本の半世紀にわたる事象。主人公たちは、まことしやかに囁(ささや)かれた「物語」に耳を傾け、世間に漂う「空気」に皮膚を晒(さら)す。ふたりの人生がコロナ禍前夜、都内のこども食堂で交差する。

 折々にふたりは喘(あえ)ぐように事実を求め、最善を尽くそうとするが、それは空回りしていく。飛馬は立ち聞きに惑わされたことを発端に罪の意識を負う。不三子は家族のためにワクチンや食品添加物に過敏になるが、かえって疎まれる。ふたりの行動の根底には他者を思う願いがあるから、いたましい。さらに中核で語られる不三子の母の戦時体験。かつての絶対的な真実=「方舟」のように信じられた物語が、のちに欺瞞(ぎまん)であった恐ろしさが主題を象徴する。

 間違っていたとは思えない。だから後悔すら出来ないの――不三子の言葉に揺さぶられる。浮き彫りにされた、信じる行為の奥に横たわる深淵。そして薄氷の上で営まれているかもしれない日常で、目の前の誰かに手を伸ばすことに生の実感を見出(みいだ)すふたりに目頭が熱くなる。

 最後に。描写された不三子と娘の関係性に、かつての私と再会した。中学受験のための塾通いで、母の目から逃れ、菓子の買い食いを知った日のこと。不三子を通して他界した母の素顔にも触れた気がして、紙面に指を這(は)わせた。(新潮社、1980円)

読売新聞
2024年5月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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