『同志少女よ、敵を撃て』の作者が考察 陰謀論者ではないけど、思わぬ波乱を呼ぶ世相を描く角田光代の長編小説

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方舟を燃やす

『方舟を燃やす』

著者
角田光代 [著]
出版社
新潮社
ISBN
9784104346080
発売日
2024/02/29
価格
1,980円(税込)

自分の考えを縛る、「役割」という幻想

[レビュアー] 逢坂冬馬(作家)

『空中庭園』『対岸の彼女』『八日目の蝉』など話題作を発表している角田光代さんの長編小説『方舟を燃やす』(新潮社)が刊行された。

 コロナ禍を舞台に昭和、平成を生きてきた二人の主人公を軸に、「信じる」ことの意味を問いかける本作の読みどころとは?

 独ソ戦の女性狙撃兵を描いたデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』が高い評価を受け、本屋大賞を受賞している逢坂冬馬さんの書評を紹介する。

逢坂冬馬・評「自分の考えを縛る、「役割」という幻想」

 角田光代の最新長編作である本作は、一九六七年に鳥取で生まれた柳原飛馬と、一九五〇年代生まれの望月不三子の二人を主人公として、その二つの人生を交互に追う人間ドラマであり、二人の視線から現代へと至る世相の変化を克明に描き出す、戦後日本の物語でもある。世相と人間の心理の両面を巧みに描写する作者の筆致は鮮やかの一語であり、また、随所に登場する脇役たちも、その語られ得ぬ部分を含めて、存在感とリアリティがすさまじい。読後は、まるで本当の知り合いの半生を、当事者の語りで振り返ったように感じた。

 それぞれに困難を抱えつつも懸命に生きる二人は、まったく別々の人生を歩みながら、当時世間を騒がせた「不穏さ」に直面する。ノストラダムスの大予言、未来さん、コックリさん、戦士症候群、カルト教団……。不気味な存在に当惑しつつもそれぞれに大人になり、ある種の挫折を経験した主人公たちは、元号が二度変わった頃に初めて出会う。その時代とは、新型ウイルスが蔓延し、偽情報が飛び交う、新たな「不穏さ」の時代であった。

 インターネットメディアの発達と共に、陰謀論者の言説を目にする機会は増えた。特に作中にも登場する二〇二〇年頃は、アメリカ大統領選挙と新型コロナウイルスの蔓延を機に身近な親族が陰謀論に傾倒するケースが相次いで、それらが社会問題として語られたことは記憶に新しい。

 そのような陰謀論者は、往々にして「正常な自分たち」とは異なる世界観の元に生きている、愚かで異常な集団と語られがちである。しかし、陰謀論やフェイクニュースといった要素が多く登場するにもかかわらず、本作に「愚かで異常な」人間は、ほとんど登場しない。たとえば望月不三子は、講習会を通じてある食事法に共鳴する。内容は似非科学的であり、白米や肉を一切排除する手段は極端だが、そこに傾倒する理由は家族の健康を願うごく健全なものだ。その後不三子が訴える主張も、一部――たとえば「子どもはファストフードの味の虜になりやすく、親はそれを避けるべき」という考えなどは――概ね正しいように思う(実際、日本マクドナルドの創業者は「人間は12歳までに食べてきたものを一生食べ続ける」と主張し、子どもをターゲットにする商法をあけすけに語っていたのだし)。

 片や飛馬はバブルの世相に浮かされることもなく、公務員となりボランティアに参加して子ども食堂に協力する、大変立派な生き方をしている。また、ある場面で述べる「ワクチンを打つかは自分で考えて決めよう」という趣旨の発言も、本来的にはごく普通のことである。愚かでも異常でもない二人の行動は、しかし思わぬ波乱を呼び、それぞれの家族を傷つけ、やがて自身をも傷つけてゆく。

 正しくあろうとする二人の主人公を混乱させているのは、ある種の「役割」であると感じた。たとえば不三子が傾倒する食事法の講師、勝沼沙苗は、常に親身になって不三子の相談に乗るし、回答の内容は一見とても優しいものに見える。しかしその思想は「男性と女性の役割を混同してはならない」「食には女が責任を持つ」というジェンダー化された家庭観に立脚している。その後不三子は育児の過程で、母親にのみ責任が押しつけられる理不尽さに苦しむのだが、自らが縋る勝沼の思想が、その理不尽なジェンダーロールを前提としていることには疑問を持てない。

 また幼少期に「災害から多くの人を救った英雄的な祖父」の話をくり返し聞かされた飛馬は、祖父に恥じぬ英雄になることが自らの責務だという呪縛から、時節に応じて英雄的行動をとることはできないか、と考え続けている。

 社会に対して積極的に関与し、自分自身で考え、行動しようとすることは重要であり、そして人の役に立ちたいと考えることは尊いことだ。しかしそこで自分を過度に束縛する「役割」が、「自分自身で考える」行為そのものを歪めてはいないだろうか。

 その歪みを経験するのは、二人の主人公だけではない。あまりの無気力さによって不三子を常に嘆かせていた彼女の母もまた、時代の下に与えられた「役割」によりかつて大きく道を誤り、自身も傷ついたことが示唆される。

 自主的に考え、他者に対して貢献しようとする彼らには、しかし、いずれにも絶対的規範が存在する。そして彼らは「規範に与えられた役割」を果たす、という使命感により行動する。それは尊敬の念や連帯感を持つ以上、誰もが陥りかねない、上限の設定された自主性であり、神に命じられたがために方舟をつくり、言われた範囲のものを救ったノアの主体性とも重なる。

 過去も、現代も、未来も、我々は玉石混淆の情報の雨を浴び、不安という名の奔流の中を生きている。誰かに自らのすべきことを明確に決めてほしい、と考えることも自然だろう。しかしその欲求こそが、自己の思考を押し流す。

 自らの思考を束縛する、与えられた「役割」に疑問を抱いたとき、人は己が乗せられた方舟を燃やし、自らの足で乾いた世界を踏みしめることが出来るのかもしれない。

新潮社 波
2024年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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