東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」

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 昭和天皇が崩御したとき、ぼくは一七歳だった。いまは四七歳だ。平成はそのあいだの三〇年を占めている。つまり平成は、ぼくの人生の知的で生産的な期間と完全に一致している。昭和期は仕事はしていない。すべての仕事は平成期に発表された。そしてぼくはいま五〇歳近い年齢であって、まったく新しいことを始めるのはむずかしい。新元号でも仕事はできるだろうが、それは平成期の延長にならざるをえない。つまりはぼくは本質的に、平成の批評家であり哲学者であり書き手なのだ。平成というのは、ぼくにとってそういう時代である。
 その事実はぼくを憂鬱にする。というのも、ぼくは平成が好きではないからだ。字面からして好きではなかった。三〇年前、ブラウン管のなかで(当時はまだブラウン管だった)官房長官が「平成」と書かれた色紙を掲げたのを見たとき、なんて間抜けな命名かと感じたのをよく覚えている。
 そう、平成はその名のとおり間抜けな時代だった。平成に入る直前の日本は大きな可能性を秘めた国だった。世界第二位の経済大国で、欧米も仰ぎ見る技術大国で、時価総額で世界トップの企業がごろごろとあり、若者も多く、人口もまだ増えていて、二一世紀は日本の時代だと言われ、新首都の建設さえ真剣に検討されていた。にもかかわらず、平成期の日本人は、自分たちになにができてなにができないのか、そもそも自分たちはなにをしたいのか、きちんと考えないままに自尊心だけを膨らませて、空回りを繰り返して自滅した。それを間抜けといわずして、なんと形容しよう。

 それはつぎのようにいいかえることもできる。平成は祭りの時代だった。平成はすべてを祭りに還元し、祭りさえやっていれば社会は変わると勘違いをし、そして疲弊して自滅した時代だった。
 その性格は政治にはっきりと現れている。平成はじつは活力に溢れた時代だった。平成ほど「変革」「改革」が唱えられた時代はない。平成は、盛田昭夫と石原慎太郎の『「NO」と言える日本』の出版と同時に始まっている。昭和の終わりは冷戦の終わりと重なっていた。平成の始まりは世界秩序の転換期の始まりであり、多くのひとが改革を夢見ることができた。
 そして実際に、平成の最初の一〇年、すなわち(ほぼ)九〇年代には、日本はあるていどまともに改革に向き合っていたように思う。一九九三年には小沢一郎の『日本改造計画』が出版され、細川連立政権が成立し、五五年体制が崩壊した。翌年には政治改革四法が成立した。河野談話や村山談話も出された。内政でも外交でも日本は変わるのではないかという期待感があった。そもそも当時の日本には体力があった。九一年にバブルが崩壊し、就職難だ不況だと言われていたが、韓国も中国もまだ貧しく、アジア最強の経済大国の地位は揺らいでいなかった。少子高齢化は警告されていたが、団塊ジュニアはまだ二〇代で若かった。九〇年代は情報技術革命の初期にあたるが、情報機器や映像機器の開発は日本のお家芸であり、コンピュータ時代の到来は日本の国力を強くするものだと考えられていた。ひとことでいえば、当時の日本は、まだ楽観的な未来を信じることができていた。その前提のうえで、政治改革のつぎに行政改革(橋本内閣)が続き、さらには二〇〇〇年代の構造改革(小泉内閣)が続き、昭和期の制度がつぎつぎと解体されることになった。そして当時は、その解体はおおむね正しいと信じられていたのである。
 けれどもその楽観は長くは続かなかった。そもそもそのような「改革」はすぐに効果が出るものでもなかった。一九九七年をピークに、平均給与は下がり始めた(国税庁調査)。生活はいっこうに楽にならず、人々は長引く不況に疲れていった。格差が話題になり、ニートやワーキングプアといった言葉が流行語になった。そして日本の競争力は坂を転がるように落ちていった。九〇年代半ばにはアメリカの名目GDPは日本の一・五倍ほどだったが、一〇年後にはその差は三倍にまで広がってしまった(ちなみに本稿執筆の時点では差は四倍以上に開いている)。日本人はようやく、だんだんと、もしかしてこの国はダメなのではないかと思い始めた。
 そしてその結果、二〇〇〇年代もなかばになると、改革への意志はだんだんと空回りを始め、お祭りのためのスローガンでしかなくなっていった。その傾向はすでに小泉純一郎の「ワンフレーズ政治」に表れていたが、よりはっきり、そして戯画的に体現していたのは、ホリエモンこと堀江貴文である。堀江は金ですべてが買えると主張し、若い世代の熱狂的支持を集めた。そして逮捕された。そのような悲喜劇が繰り返されるなか、時代はなにもかものリセットを望み始めた。そして二〇〇九年に民主党政権が誕生した。いまとなっては当時の空気を思い出すのはむずかしいが、あの政権交代劇は平成最大の「お祭り」だったように思う。マスコミは熱狂し、支持率は六〇パーセントを超えた。驚くほど多くの人々が、こんどこそほんとうに世の中が変わるのだと信じた。ぼくは政権交代の直後に、リベラルで知られる団塊世代の芸能人がMCを務める、あるラジオ番組に出演したことがある。民主党に懐疑的な意見を述べたときの、あのゴミでも見るかのような侮蔑の視線は忘れることができない。
 現実には彼らの期待は裏切られた。民主党政権は発足直後から迷走し、鳩山首相は沖縄基地問題を混乱の極に突き落とし辞任した。そして二〇一一年には東日本大震災と原発事故が起き、翌年末には政権は自民党に戻った。二〇年近くにおよぶ「政界再編」のお祭りは、結局のところなにも変えなかった。
 にもかかわらず、祭りは終わることがなかった。というよりも、政治はさらに祭りの性格を強めていった。震災後は「デモの時代」が到来した。金曜日の夜に国会前に何万人もの人々が集まるようになった。SEALDsが現れ、本当の民主主義が生まれるのだと叫んだ。でもやはりなにも変わらなかった。というよりも、そこではもはや、だれも本気でなにかを変えようとは思わなくなっていた。選挙ではポピュリズムが吹きあれ、都知事がくるくると変わり、二〇一七年にはついに最大野党が自壊した。自民党の政権基盤はかつてなく磐石となった。安倍晋三は二〇一九年一一月には桂太郎を抜き、憲政史上最長の在職日数の首相となる。そして、そんな政治的安定性と引き換えに、日本の国力はますます下がっていった。GDPは中国の半分以下となった。団塊ジュニアは子どもを作れない年齢になった。日本の技術が世界を変えるとはだれも信じなくなった。貧困や児童虐待が連日報道され、嫌韓や嫌中のようなヘイトもまかりとおっているが、多くの日本人はそんなことに悩みすらしなくなってしまった。それでも東京五輪を控えて株価だけはあがり、日本はすごい、日本は変われる、日本はまだまだいけるという本ばかりが売れ続けている。
 改革の九〇年代(平成ゼロ年代)からリセットの二〇〇〇年代(平成一〇年代)へ、そして祭りの一〇年代(平成二〇年代)へ。平成の三〇年を大きく三つに区切れと言われれば、ぼくはそのようにわけるだろう。平成期の日本人も、けっしてずっと無気力だったわけではなかった。最初はまじめに地味に、「痛みに耐えて」─これは小泉内閣が好んで使った言葉だが─いた。それが途中から自暴自棄なリセット願望にすりかわり、最終的には祭りを繰り返して現実逃避をするぐらいしかできなくなってしまったのである。

 かつて日本には未来があった。平成の三〇年は、祭りを繰り返し、その未来を潰した三〇年だった。
 ぼくは平成の批評家である。だからその間抜けさは、半分はぼく自身の人生の間抜けさでもある。改革の九〇年代、ぼくは大学で哲学を学んでいた。現代思想の新たな領域を切り開くのだと意気込んでいた。その成果は一九九八年(平成一〇年)に『存在論的、郵便的』という書物に結実した。同書は高く評価され、これで論壇や文壇は大きく変わるはずだと、二〇代のぼくは素朴に信じた。
 実際にはそんな変革は起きなかった。一冊の書物で変わるほど論壇も文壇も狭くはなかったし、そもそもそれ以前に人々は予想よりはるかに保守的だった。批評には新しい可能性があるのだと力説すればするほど、嘲笑われる時期が続いた。
 ぼくはだんだんと疲れ始めた。そして徐々に、批評や思想を改革するのではなく、それらを支える権威主義そのものをひっくり返し、読者層を含めてすべてをリセットすることこそ必要だと考えるように変わっていった。ぼくは年長世代の大学人との交流を断ち、若い世代の読者を集め、サブカルチャーやネットカルチャーに活路を見出すようになった。その方針転換は二〇〇一年(平成一三年)の『動物化するポストモダン』の出版に始まり、七年後(平成二〇年)に講談社BOXの主催で行われた「東浩紀のゼロアカ道場」で頂点を迎えた。「ゼロアカ」という命名にはじつは痛烈なアイロニーが込められている。それは「ゼロ年代のアカデミズム」の略であると同時に、「アカデミズムがゼロ」の略でもある。当時ぼくは批評家を名乗るのをやめていた。テレビに出るようになり、哲学などまったく興味をもたない人々と好んで交わっていた。小説を書き、アニメ原作に手を出した。リセットの二〇〇〇年代(平成一〇年代)、ぼくはすべてが嫌になっていた。九〇年代に必死で手に入れた人文的な知識や教養をすべて捨て、人生を再起動したいとばかり考えていた。当時のぼくは気づいていなかったが、その欲望はあきらかに時代と共振していた。そして、ゼロアカ道場の一年のあいだに、実際に世間では政権がリセットされた。
 改革の九〇年代とリセットの二〇〇〇年代、ぼくは時代と完全に共振していた。ぼくは世界を変えられると信じていた。そして変えられないのならばリセットすればいいと信じていた。日本人が日本を変えられると信じ、変えられないのならばリセットすればいいと信じていたように。
 その共振が解除されるようになったのは、祭りの一〇年代に入ってから、すなわちぼくが四〇代に入ってからである。震災後、デモの盛り上がりに反比例するかのように、ぼくは急速に政治への関心を失っていった。朝日新聞の論壇委員を降り、早稲田大学教授の任期延長を断った。テレビや週刊誌に出なくなった。サブカルチャーやネットカルチャーにも期待しなくなった。それでも原発事故についてだけは考え続けようとしていたが、二〇一三年(平成二五年)の『福島第一原発観光地化計画』の出版が失敗に終わったあとは、社会問題に関わること、それそのものが虚しく感じられるようになった。あの失敗は、たんに売上の点で不調であっただけでなく、不調を知った共著者の社会学者が手のひらを返したようにぼくを批判し始めるという、きわめて後味の悪い経験だった。ぼくは似た経験をほかにも繰り返し、徐々に、福島も沖縄も改憲も民主主義も、この国ではすべてが言論人のお祭りのための駒でしかなく、なにを話しても無意味なのだと考えるようになった。平成二〇年代の後半、ぼくはゲンロンに引きこもるようになった。そして、自分にはなにができるのか、ほんとうのところなにをしたいのか、おおもとから考えるようになった。結果として、ぼくはもういちど哲学に戻った。そして、哲学を愛する人々のコミュニティをつくり、維持することを考え始めた。二〇一七年(平成二九年)の『観光客の哲学』は、前者の結果書かれた。そしていまゲンロンで行なっているカフェやスクールの運営は、後者の結果始まっている。
 だから、ぼくはいま、おそろしく時代から離れた場所にいる。哲学のコミュニティをつくるというと、最近話題のオンラインサロンと比較する人々がいる。ゲンロンをその文脈で理解しているひとは多いし、なかには、宇野常寛や落合陽一といった具体的な名前を出して、東さん、彼らに読者を奪われてますよと「忠告」してくれる親切な人々もいる。けれども、いまぼくが行っていることは、彼らの試みとは無関係なことである。宇野や落合は祭りのなかにいる。日本を変えようとしている。ぼくは祭りから遠く離れ、日本を変えようとなどまったく考えていない。いまのぼくは、ただ、自分ができること、やりたいことに素直でいたいだけだ。
 批評家の才能とはなにか。もしそれが時代と無意識に共振することなのだとしたら、ぼくにはたしかにその才能があった。けれどもそれは、時代がもし不毛だとしたら、自分の人生もまた不毛になることを意味している。ぼくはそのことに、平成の最後の一〇年に入ってようやく気がついた。

 平成の日本は、自分たちになにができてなにができないのか、そもそも自分たちはなにをしたいのか、きちんと考えないままに自尊心だけを膨らませて、空回りを繰り返して自滅した。
 平成の最後の一〇年になって、ぼくはその病から逃れようと決意した。けれども日本全体がその病を逃れることができるかどうかは、わからない。祭りの時代はまだ終わりそうにない。新元号は東京五輪と大阪万博によって始まる。文字どおり「お祭り」によって始まる。東京五輪と大阪万博は半世紀まえにも開かれた。人々はその反復が日本の復活を呼び寄せることを期待しているが、そんな呪術めいた期待が実現するわけがない。祭りという空手形の実態が見えたとき、人々がなにを求め始めるのか、ぼくにはまったく予測できない。
 ただひとつ、一七歳から四七歳という人生のもっとも重要な時期を平成に捧げた世代として、新元号を生きる若い読者たちに伝えたいことがある。かつて日本には大きな可能性があった。同じようにぼくたちの世代にも可能性があった(あたりまえだ)。平成の三〇年は、空虚な祭りを繰り返してその可能性を潰してしまったが、それと共振し、不毛な半生を過ごしたのはけっしてぼくだけでないように思われる。言論人でも政治家でも経営者でもなんでもいいが、ぼくたちの世代には、日本は変えられる、変えるべきだと信じた結果、結局は祭りの神輿になることしかできず、可能性を掴み損ねた人々がたくさんいる。前出の堀江貴文がその典型例だ。彼にはあきらかにもっと大きな可能性があった。
 だからぼくは、新元号を生きる新しい世代には、そのような失敗を繰り返してほしくないと思う。この時代のこの国に、過剰な期待を寄せて消尽しないでほしいと思う。ぼくは日本が悪い場所だとは思わない。また、二一世紀のいまが悪い時代だとも思わない。けれども、日本という場所と二一世紀のいまという時代の組み合わせは、なにかとてもうまくいっていないところがあって、新しい本質的なことをしようとすると必ず大きな障害として立ち現れるのだ。少なくとも平成においてはそうだった。
 ぼくは平成の批評家だった。それは、平成の病を体現する批評家であることを意味していた。だからぼくは、自分の欲望に向きあわず、自分にはもっと大きなことができるはずだとばかり考えて、空回りを繰り返して四半世紀を過ごしてしまった。
 ぼくは新元号では、そんな空回りを止めて、社会をよくすることなど考えず、地味にできることだけをやっていきたいと思う。それはおそらくは、批評家の資格をなくすことを意味している。敗北主義で冷笑主義で現状肯定だと批判されることを意味している。おまえらがそんなヘタレだから日本はこうなったんだと、若い世代からは非難されることも意味している。けれども、もう偽りの希望はうんざりだと、平成という病を生き抜いた四七歳のぼくは心の底から思っている。
 そして、その疲労は、きっと、ぼくと同世代の多くの日本人が共有しているはずだとも思うのだ。ひとの人生は無限ではない。

文:東浩紀

河出書房新社 文藝
2019年夏季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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