書店員×作家、胃袋無尽蔵コンビによる“食べ友”エッセイを特別無料公開! 「胃が合うふたり(3)」試し読み

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「胃が合うふたり 第五回 両国スーパー銭湯編」(C)yom yom「胃が合うふたり」/絵:はるな檸檬

書店員の新井見枝香さんと作家の千早茜さんによる、「yom yom」の人気連載「胃が合うふたり」。

友人たちとなかなか出かけられない今だからこそ、「気が合う」もとい「胃が合う」2人の食べっぷりと、たっぷり思考する大人の友情でみなさまの心も満腹に。連載から厳選3編を、特別に無料公開いたします!

本日の無料公開は「胃が合うふたり 第五回 両国スーパー銭湯編」。
扉と挿絵漫画は漫画家のはるな檸檬さんの描きおろしです。

新井見枝香

 代々木上原にあるまつげサロンに行ったら、必ず「按田(あんだ)餃子」で水餃子を食べて帰る。あんが異なる四種類の餃子は、ハトムギ入りの自家製皮に包まれて、その食感や風味が、これからゆるやかに就寝へと向かいますよ~、と副交感神経に働きかけるようなやさしさだ。疲れた日にサッと寄って、お腹をあったかくして帰りたい店である。だが、メディアで紹介されたこともあって、いつも行列が絶えない。今日も寒空の下、身を固くして二十分ほど並んでいた。明日は雪が降るらしい。付けてもらったばかりのまつげが、まぶたの上で震えている。

 店の前を通りすぎる人たちが、並ぶ客を振り返っては、それぞれに感想を述べていった。

「うわ寒そう」「見て、ひとりの人もいる」「けっこうなおじさんも並んでるね」

 列をなした人間に対して、部外者は遠慮がない。道端ですれ違う人間を必要以上に見て、心に浮かんだことを聞こえる声で言えば、喧嘩になることだってあるだろう。しかし列に並ぶ人たちは、聞こえないふりで、従順な羊のように、引き戸が開くのを待っている。

 不愉快だった、という話ではない。他人から視線や意識を向けられることが嫌ならば、公共の場に出ないか、人里離れた山奥で生活するしかない。人間は人間を見て、何か思うのが好きだからだ。電車の中で、よその子どもにじっと見つめられたことがあるだろう。見たら失礼だという感覚がなければ、見たいだけ見るのである。そして、思ったままを口にする。私は何度か「あのおにいさん」と大声で言われたことがあるが、子どもは正直というから、その通りなのだろう。大人になると理性で我慢する。どうしても見たいときには、お金を払って堂々と見る。ライブハウスの最前列なんて、音響のバランスは最悪だが、ステージに立つ人間の顔が見たいから、死にもの狂いで奪い合うのである。向こうもそのつもりだから、穴が開くほど見つめたって、何ジロジロ見てんだよ、とは言わない。私の職場で老眼鏡や双眼鏡が異様に売れているのは、近くに宝塚劇場があるからだ。そうまでして人は、人の姿形や行動を見たいのである。好きな人であれば、なおさらだ。

 しかしあの日の私は、友の姿を、ほとんど見ていない。

 ストリップ仲間と忘年会で訪れた「江戸遊」は、両国にあるオシャレなスーパー銭湯だ。館内の食事処でちゃんこ鍋を囲んだが、時間の都合で、ゆっくり入浴できなかった。年明け、仕事で東京に滞在するちはやんを誘ったのは、今度こそ気が済むまで湯に浸かって、あの食事処でだらだらと飲み食いし、あわよくばそれをエッセイのネタに、なんて世の中をなめたようなことを思いついたからである。正月から腹筋を割ろうと思い立ち、うっかり腰を痛めていたので、自分を甘やかしたかったのもある。書店員の仕事で、一度も腰痛を感じたことがないのは、腹筋運動以下の気合いだったということか。

 お決まりの浅草ストリップ鑑賞を経て両国へ向かうも、すでに腹が減っている。だって、まだパフェしか食べていないもの。「江戸遊」に入館すると、脇目も振らず食事処へと向かった。ほとんどの人が揃いの館内着を纏い、温泉旅館の宴会場のごとく、くつろぎすぎている。風呂とは、ここまで人を弛ませるものなのか。しかし我々はまだ、酒を飲まない。すだちサワーではなくすだちスカッシュと天丼に決めて、お店の人のハンディターミナルにチップ入りのリストバンドをかざす。退館するときに、入館料とまとめて精算すればいい。ちはやんはそれを気に入ったようで、楽しそうにかざして、何を頼んだっけか。そうだ、鴨南蛮を選んだはずだ。一瞬、何を食べていたか思い出せなかったのは、啜る音が一度も聞こえなかったことと無関係ではあるまい。私はいつも、音と一緒に物事を記憶するタイプなのである。蕎麦もうどんもラーメンも一緒に並んで食べたはずだが、いつも彼女は啜らず、静かだった。「あむあむ」とからかえば恥ずかしそうにするが、啜ってみるつもりはないらしい。私はそれを、好もしい、と感じている。パフェに乗ったフルーツを手掴みで食べる。たい焼きを腹の真ん中で割って食べる。羊羹をとんでもない分厚さに切って食べる。好きなように食え。それが我々の共通意思だ。それにしても、いつから人は、当たり前のように「ズゾゾゾ」と音をたてて啜りだすのだろう。他人の「クチャクチャ」は気になるのに、「ズゾゾゾ」に寛容なのは何故か。人と食事をすると、自分の当たり前がゆらぐ。私は彼女とのそれが、楽しくて仕方がない。別々の人生を長く歩んできたからこその、面白味だ。

 腹もほどよく膨れて、脱衣所のフロアへ移動すると、私はあっという間にすっぽんぽんになって、浴場に突進した。びゃびゃっと流して湯船に沈んでいると、しばらくして湯気の向こうからちはやんが現れた。声を掛けて、ジェット風呂や電気風呂を一緒に楽しむ。露天エリアに出ると、室内より人が少ない。そして気温が低いせいで、いくら浸かってものぼせない。ここでポツポツと会話しながら、湯に溶けそうなほど長い時間を過ごした。そしてまた室内に戻り、ラベンダーの香りのスチームサウナに入って、足湯に浸かりながら泥パックを塗りたくって、ぴっかぴかになって風呂を上がった。

 揃いの館内着で食事処へ戻り、すっぴんのまま酒を飲み、めいめいが食べたいものを注文する。運ばれてくるもずくや玉子焼きやカニクリームコロッケを、分け合ったり抱え込んだりしながら、失った水分と塩分を補った。そしてまた風呂で軽く温まり、終電前に解散。

 実はだいぶ前から気付いているのだが、どこで止めたらいいかわからぬうちに、一日の出来事を書き終えてしまった。これではただの日記ではないか。まがりなりにも、小説家の友人と名前を並べて、エッセイを書いている私が、なんというていたらく。

 思えば、脱衣所での行動からすでに、この経験でエッセイを書く、という自覚が足りていない。親しい友人が何色のパンツを穿いていたのかすら、記憶にない。なぜなら見ていないからだ。風呂に入っても、裸の体にほとんど目を向けず、四肢をめいっぱい広げ、 ア゛ーとかヴーとか呻いて、半目になっていただけだ。どんな顔で湯に浸かっているのか、体はどこから洗うのか、何も見ていない。

 なんだか、見てはいけないような気がしていたのだ。でも、見てはいけないと思いながら見ないでいると行動が不自然になるため、ひたすらお湯が気持ちいい、という感覚に集中していた。たとえばちはやんのお尻からドキンちゃんみたいな尻尾が生えていたとしても、じろじろと見ないでいられるような人間でありたいと思っている。人の姿形、立ち居振る舞いに、自分の心がマイナス方向へ揺れ動くことは、とても愚かだと思う。自分と比べて嫉妬をしたり、憐れんだり、嫌悪したり、ばかにしたりすることだ。そういう汚い感情を、ほんの少しでも彼女に抱いたら、と思うと、怖くて見ることができなかったのだ。あまりにも弱い。信用がなさすぎる、自分自身に。

 とにかく風呂は最高だな、という、極楽ばかりで何も得ることがない風呂上がりのフルーツ牛乳みたいな回になるかと思いきや、意外と自分的にアンタッチャブルな面に踏み込むことになり、滝のような汗をかいている。風呂だけに。

 ずっと清廉潔白な気持ちで彼女と向き合っていたいが、これだけ頻繁に顔を合わせ、距離を詰めていけば、そういうわけにもいかんのだろう。思ったことをなかったことにできないことで、大変面倒くさい人生を歩んできたのだが、彼女に対しては、正直でありたい。それで嫌われればそれまでだ。

 なんだか、すっかり裸になってしまった。風呂だけにな。


(C)yom yom「胃が合うふたり」/絵:はるな檸檬

千早 茜

 中学生の頃、恋愛におけるAとかBとかCの段階があるということを女子の噂話で聞いた。確か、Aはキスで、Bはペッティング、Cはセックスだったと思う。けれど、いいや違う、Aは軽いキスで、Bはベロチューで……と言う子もいた。そして、恋人がいる子は「Aもまだなんだ」とか「Bまでいった」とか女子同士で報告しあっていた。当時、私には好きな子がいて、その好きな子も憎からず想ってくれていたようなのだが、ABCの話を聞いて私は「ドン引き」してしまった。当時はその言葉がなかったため、私は「キモチ悪い」と思った。口にだしてしまった。この「キモチ悪い」は恋愛の相手を退けてしまう強力な呪い文句で、淡い恋は悲しい結末を迎えた。

 いまになって考えてみると、私は相手との物理的な行為によってしか恋愛という関係性を深められないことに違和感があった気がする。別にCからはじめる純愛だってあるし、手を繋ぐだけで最高にエロいという関係があってもいい。それは当人たちの間で共有できていればいいことで、同性の友人に報告すべきことではない。「あの子たちどこまでいったのかな」という目で見られることも、幼く潔癖だった私は嫌だったのだろう。

 ちなみにこのABC話、最近の若者にはあまり通じないそうだ。それは喜ばしいことだけれど、代わりの隠語はきっとあるに違いない。どんな関係性においても段階というものは確かに存在するからだ。それは親しくなるスピードにも密接に繋がっていて、友情においては見誤ると「いつまでも他人行儀だ」とか「距離感が変」とか言われてしまう。すごく難しい。

 前置きが長くなったが、私にも友情においての段階というべきものはある。段階と言ってしまうと深まったり高まったりしたほうが良いという感じがして不本意なのだが、無意識下の線引きみたいなものは確かに存在している。こればっかりはどうしようもない。

 そのひとつが一緒に旅行ができるか、だ。細かく言うなら同室で寝泊まりできるかなのだが、まだ親しくなったばかりの人とはどうしてもできない。身体が相手の気配に慣れていなくて気を抜くとぴりぴりしてしまうし、気を遣っているとお互いに疲れる。なので、たいして親しくもないクラスメイトと同部屋に詰め込まれる修学旅行というイベントは私にとっては地獄だった。大人になった今も、一緒に旅にいける友人の数は片手に収まるくらいで、ここ十年近く変動がなかった。そこに去年からひょっこり新井どんが入ってきた。春の台湾旅行、秋には広島に行った。

 新井どんは拍子抜けするくらい自由だった。目を離すといなくなるし、計画なんてたてない。違うものを見たいときはさっと別行動し、食べるときには自然に集合する。眠りたいときに寝て、喋りたくないときは黙っている。私がいるのにひとりごとを言って笑っている(本人はそんなことしてないと言い張るが確かにひとりで喋り、笑っていた)。前にも書いたが、トラブルが起きても苛々せずに状況を楽しんでくれる。楽ー!と思った。

 しかし、一度だけ動揺したことがあった。

 広島での夜、我々は遅い時間にほろ酔いでホテルに戻ってきた。私は茶を淹れ、新井どんはむしゃむしゃとコンビニで買ってきた夜食を平らげ、先に風呂に入った(また浴室でひとりごとを言っていた)。交替で私が風呂へいった。湯船に浸かっていると、部屋から聞こえていたひとりごとが途絶えた。寝る準備を整えて部屋をのぞくと、こうこうと明るい室内のベッドで新井どんが大の字で寝ていた。濡れ髪に、フェイスパックはつけたまま、おまけにバスローブがはだけて完全に御開帳している! これは……とたじろいだ。同泊はもう大丈夫だ。しかし「裸を見る」というのは違うステージの付き合いだ。まだそんな心構えはできていないし、了承も得ていない。しかし、このまま放置しては風邪をひいてしまう。風邪をひいたことがないと常々言っている新井どんだが、なんせ旅先だ、初めての風邪をひいてしまうかもしれない。

 反射的に私がとった行動は「部屋の電気を消す」と「エアコンの温度をあげる」だった。まるで手練れの刺客のように素早くやってのけた。これで「裸を見ない」と「風邪をひかせない」はクリアできると思った。ただ、つけたままのパックが気になる。エアコンの風でばりばりになったら肌にひどい負担をかけてしまう。これはしばし悩んだ。はがしてあげてもいいが、「触れる」というのはもっと遠いステージにある。相手が寝ているときになんてなおさらだ。そして結局、スマホのライトで照らしながら「新井どん、パック。パック外しなよ」と声をかけた。

「んあ?」みたいな声をあげながら新井どんは起きた。半目。起きあがろうとするが起きあがれない。ゾンビのように、ぐぐぐ、ぱたん、をくり返している。スマホライトの効果もあって、ちょっと怖い。「ほら、パック。パックしたままでしょ」と言うと、「ああー」とやっと理解したようでベリッとパックを剥いだ。「はい」と渡してくる。えっ!と仰天したが、手を引っ込める気配がないので受け取る。ばったんと新井どんは倒れ、すぐさま寝息をたてはじめた。私は手にぬるい使用済みパックを持ったまま、暗い部屋に呆然と立ちつくしていた。

 そんな感じで、新井どんには半ば暴力的にあらゆる線を越えられた気がしている。今回「両国の江戸遊がすごくいいんだよ」と誘われたときも、裸の付き合いか、と一瞬身構えたが、使用済みパックの仲だしな、とすぐに心も身体も受け入れていた。温泉には行ったことはあったが、温浴施設というのか、いわゆるスーパー銭湯は初体験だった。「きれいだし、食べ物もお酒もあるよ」と、他の人と行ったときの写真を見せてくれた。「こういうの着なきゃいけないけど」と作務衣みたいな館内着を指してにやにやしている。どう見ても私に似合わなそうだ。さては着せて笑う気だな、と思ったが、寒い冬の湯の誘惑には勝てなかった。

 当日、私は年明け初の東京だった。浅草の「フルーツパーラーゴトー」で待ち合わせた。初パフェだ。ここで新井どん、なんと連休初日の混雑を見越して先に並んでいてくれた。彼女は私の好物を突然送ってきたり、大量のお勧め菓子を帰り際に手渡してくれたりと、たまにこういった格好良いことをする。おかげで到着してすぐに席につけた。思い思いのパフェをうっとりと食べ、「浅草ロック座」で新春公演を観る。舌も目も潤ったところでいざ風呂か、と思ったら、新井どんは浅草の人混みの中をどんどん進んでいく。団子を食べ、ジェラート屋でトリプルを注文した。「ここ、うんまいの」と子供みたいな顔をして食べている。

 大晦日、新井どんは京都にやってきて、私の友人たちと一緒に我が家で年越しをした。彼女は私の京都の友人たちにものすごく普通に溶け込んでいて、年上の子からも年下の子からも甘やかされていた。あのときもこんな子供みたいな顔をしていたなあと思う。蟹やケーキやしゃぶしゃぶやお節を食べて、最後に京風雑煮をお代わりして帰っていった。

 新井どんに勧められた芋味のジェラートは優しい味がした。浅草は家族連れが多く、正月のにぎやかなのに長閑(のどか)な空気がどことなく残っている気がした。

 両国の駅に着いたのは四時過ぎだった。駅を出てすぐに「江戸遊」の大きな看板があり、すっきりした建物が目に入る。新井どんは家に帰るみたいにすたすたと進み、吸い込まれていく。中に入って驚く。あったかい……頭から足の先までぬくぬくだ。ちょっと湿度もあって、石鹸の香りがして、なんというかこれは……布団! いい感じにぬくまった布団だ! はやくも受付の時点で溶けはじめたが、急に腹が鳴った。「腹減った!」「減った!」と食事処に駆け込み、私は鴨南蛮そば、新井どんは揚げたて天ぷら丼を頼んだ。鍵つきのリストバンドを店員さんが持った機械にピッとかざすだけでいい。会計はすべて帰るときだそうだ。財布の中という現実をいちいち見なくていい。ピッとするだけで、なんでも飲んで食べられるなんて楽園か。テンションがあがったが、風呂場で倒れたら恥ずかしいのでアルコールは控えた。

 あとであれ食べよう、風呂上りはコーヒー牛乳かな、とはしゃぎながら脱衣所へ。ここで私ははっと現実に戻る。風呂に入る前には歯を磨きたい……! 特に理由はないが、いつもそうしているのでしないと落ち着かない。自分だけの習慣かもしれないし新井どんには言えない。そして、私は旅先でも髪や肌に触れるものは家と同じものがいいので、備え付けのシャンプーや化粧水の類はいっさい使えない。一度、一泊だけだからと試供品のシャンプーとコンディショナーを使ったことがあったが、寝返りをうつ度にただよう自分の髪の匂いに「部屋に誰かいる!」と飛び起きてしまい、まったく眠れなかった。ちまちまと持参したメイク落としや歯ブラシで入浴する準備をするうちに、新井どんはぽんぽんと服を脱ぎ浴室へ消えてしまった。自分の神経質さが面倒くさい。

 ようやくメイクを落として、ロッカーの前に行って気づく。この取材、メモ取れないじゃないか。浴室にはスマホすら持って入れない。裸一貫だ。新井どんに意見を求めようにも、もうきっと湯でとろけているだろう。これは選択ミスしたかも、とへこむ。

 のろのろ服を脱いでいると、横の女性が目に入った。動きが大きい。脱いでは投げ、脱いでは投げ、と服をロッカーに放り込んでいる。ジーンズをボン! セーターをボン! ヒートテックインナーを脱いだ勢いで髪についていたシュシュがスポッと抜けて床に転がった。あ、と思う。「落ちましたよ」と言おうとした。けれど、そのときにはもう女性はブラジャーとショーツをボン!したところだった。あーすっぽんぽんだ。いま声をかけたら脱ぐところを見ていたと思われてしまう。しかも、私はまだ中途半端に着衣だ。自分だったら裸のときに着衣の人に話しかけられたくないかも。ごにょごにょ悩んでいるうちに女性は行ってしまった。

 タイミング逃した……とちょっとしょんぼりと浴室に入ると、湯の中から新井どんが「ちはやん」と声をかけてきた。ぬるめの湯に並んで浸かる。「シュシュ落ちたの言えなかってん……」とつぶやくと、「ちはやん、あのね、こういうところに来る人は見られることなんか気にしてないんだよ」ときっぱり言われた。「そうなの?」「そうだよ!」そう言う新井どんはおっぴろげだ。湯船から湯船へと歩くときもタオルで隠さず、内股にもならない。浸かっているときはあぐらか立て膝、両手に美女をはべらす富豪みたいに両肘を湯船の縁にかけて胸を張っている。なんだか少年漫画の効果音「バーン!」とか「ドン!」の字が背後に見えそうな感じだ。性格もちょっと『ワンピース』のルフィっぽいかもしれないと思い、海賊の一味になったかのように気が大きくなった。そうか、見ていいのかー。

 というわけで、私は見まくった。もともと人の身体が好きだ。たまに体型の違う友人と服を買いにいって同じ服を試着したりするのだが、くびれ、体幹の厚さや薄さ、肩のかたち、胸や尻の肉のつき方、腰骨の大きさ、すべてがひとりひとり違って、同じ服が違う顔を見せるのが楽しい。身体は立体なのだ。脱衣所での着衣姿と浴室での裸の肉体を見比べて、あの尻のかたちだとワンピースはああいうラインがでるのか、肩から背中の曲線がパーカーだとわからなかったな、と長湯をしながら観察していた。肌の色や質感、傷、妊娠線、骨の浮き方、肉の強弱、身体にはその人の生き様が表れる。どの身体も興味深くて、どの身体もきれいで、服に生かせる長所も服の下に隠した秘密も持っている。私は新井どんの、水がくめそうな鎖骨のくぼみとパンツが似合うまっすぐな脚が大好きだ。

 ちなみに、浴室の出入り口付近に使い捨ての歯ブラシがあって、浴室で歯を磨いてもいいのだということは後で新井どんに教えられた。風呂に入る前に歯を磨きたくなる人は私だけではなかった。自分の自意識が恥ずかしい。

 ジェット風呂ではしゃいで、足湯をしながら全身に泥パックをし、ラベンダーの香りのスチームサウナに入り、薬湯で健康になった気になり、露天の寝湯でのんびりした。寝っ転がっていると、湯気が暗い空にゆっくりゆっくりあがっていって、生まれ故郷の北海道を思いだした。雪が降るのを下から眺めていると空にのぼっていくように感じた。電車の音がひっきりなしにして都会にいるのだと思いだす。ふと、新井どんを見ると体育座りをしながら寝ていた。自由だ。

 四時間近く入っていた。すっかり空腹になり一度あがって、また食事処にいく。人がいっぱいでにぎやかだった。みんな作務衣風の館内着を着ている。ビールと酎ハイで乾杯し、好きなものをピッとして頼む。梅きゅう、岩もずく、パクチーサラダ、蛸の唐揚げ、カニクリームコロッケ……新井どんが玉子焼きをひとりじめしていた。醤油が欲しいようだ。店員を呼ぼうとしたら、新井どんは隣のテーブルの男性ふたりに「ちょっと醤油かしてください」と声をかけた。新井どんはすっぴんに館内着、男性ふたりは入浴前なのか私服だった。湯でふやけた私たちとは違い、まだしゃっきりしている。私は恥ずかしくて見ないようにしていたのに、醤油をかりるなんてメンタルが強すぎる。相席でもないのに、ほんとすごいよ。そう思っているうちに新井どんが玉子焼きの最後の一切れを口に入れた。ああっと思ったが言えなかった。駄目だ、私は羞恥心や自意識を捨てきれない。それらはくつろぎに相反するものだ。この施設にはふさわしくない。

 食べ終わると、もう一度湯船に浸かった。さすがにそんなに長くは入れず、三十分ほどであがった。新井どんは身支度も早かった。私がようやくドライヤーと薄化粧と着替えを終えて探しにいくと、リラクゼーションルームのビーズクッションの上で仰向けに身体を投げだしていた。コーラのペットボトルがもう空だ。身体のどこにも力が入っていない軟体動物のようなすごいくつろぎっぷり。かなわない、と思いながら、私はコーヒー牛乳を飲み「ここを経験しちゃったら遊ぶという概念が変わるね」と感想を述べた。「だろー」と新井どんは顎をのけぞらせて言った。

 仮眠室もあって朝までいられるようだったが、ホテルをとっていたので日付が変わる前に出た。新井どんと別れ、別れたあとも「アーモンドミルクが見つからない」「ナチュラルローソンにあった」などというLINEをしながら、ふと、館内着姿を笑われなかったと気づいた。そういや、あまり目も合わなかったような気がする。あたたかく湿った空気の中、常に魂を浮遊させていた感じがした。湯けむり達人なのか。いや、もう仙人の域まで達してる。

 常宿の部屋に入ってひとりになると、身体中からよその風呂の匂いがした。あーやっぱ無理ーとまたバスタブに湯を張り、家で使っている入浴剤を溶かした。洗い直し。

 そして、水分補給を忘れていた私はその晩、がんがん頭痛に悩まされ、水を買いにすっぴんでコンビニに走った。喉の渇きの前には羞恥心も自意識も吹っ飛ぶ。せっかく裸の付き合いができる友人がいるのだ、次回はもうちょっとスマートに楽しみたい。

(つづく)

絵:はるな檸檬

新潮社 yom yom
vol.61(20203月20日配信) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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