世界史の教科書にも載っている偉人が、中国で「悪党」と嫌われた理由 『悪党たちの中華帝国』試し読み

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宋の宰相・王安石と言えば、合理的な政治改革が進めた人物として、世界史の教科書にも掲載されている「偉人」である。ところが意外なことに、中国では長いあいだ「悪党」と批判されてきた嫌われ者だという。はたして王安石とはどんな人物だったのか。中国史の第一人者・岡本隆司さんの新刊『悪党たちの中華帝国』から、一部を抜粋して公開します。

王安石の登場

王安石、字(あざな)は介甫(かいほ)、いまの江西省の撫州(ぶしゅう)臨川(りんせん)県の人。欧陽脩は同じ江西出身の先輩であった。生まれは真宗の天禧(てんき)五年(一〇二一)、のちライバルとなる司馬光よりおよそ二年年少、ほぼ同世代である。天性明敏にして博覧強記、慶暦二年(一〇四二)に第四位の成績で科挙に合格、官途についた。二十二歳の時である。

「慶暦の治」から「濮議」にかけ、官界の花形は中央の台諫や翰林学士など、実権・実務をもたない「言路(げんろ)官」、要するに政権批判・野党的なご意見番であった。そこで正論をぶち上げて目立っておき、のちの出世につなげようという処世術でもある。范仲淹も欧陽脩も、そうやって副宰相にまでのぼり、やがて次の世代に批判された。それが蘇軾・司馬光たちの世代にあたる。

ところが王安石は世代が同じながら、およそ異なる経歴だった。地方官を歴任し、中央の官職についた経験がほとんどない。すでに科挙合格の当時から学問文章の名声があったにもかかわらず、華々しい朝廷の論議に目もくれず、地味な地方まわりばかりで過ごし、名利に恬淡(てんたん)との評価が高かった。しかも嘉祐三年(一〇五八)、朝廷に提出した復命書「万言書」が文章・内容とも、千古の名文と絶賛をうけている。当時のかれほど、資質・履歴・才幹のあらゆる面で評判が上がって、将来に期待の集まった人物もめずらしい。

神宗は熙寧(きねい)元年(一〇六八)、いまの南京(ナンキン)・江寧(こうねい)府の知事をつとめていた王安石を側近たる翰林学士に抜擢、上京させてその抱負・政見を確かめたうえで、翌年には副宰相に起用、いよいよ改革を始動させた。

新法の挙行

かくて輿望を一身にになって登場した王安石は、さっそく具体的な改革事業にとりかかった。熙寧三年十二月(一〇七一年一月)、宰相に昇進して、名実ともに主導的な立場になる。

進めた改革はふつうに「新法」とよばれ、教科書もふくめ、関連する歴史書なら説明のないものはない。ここでくわしく立ち入る必要はないだろうが、ひととおり紹介はしておこう。

「新法」の眼目は、さしあたって窮迫した財政の再建にあった。それには収支バランスの回復、つまり支出の切りつめと収入のアップをはかるのが定石である。

農村で民兵を編成し治安維持にあたらせた「保甲(ほこう)法」、軍馬を農民に飼育させる「保馬(ほば)法」は、膨脹の一途をたどっていた官軍経営の負担軽減を目的とした。

「農田水利法」「淤田(おでん)法」は治水事業・農地開発を振興し、「方田均税(ほうでんきんぜい)法」は課税を公平にするもの、また「青苗(せいびょう)法」は農閑期に高利貸で困窮しがちな小農民を政府の低利融資で救済し、地主の懐に収まっていた利息を政府の収入に転化しようとしたものである。いずれも税収増加をはかる措置だった。

農村を対象とした以上の改革に対し、都市の商業に関しては、「均輸(きんゆ)法」「市易(しえき)法」がある。ともに当局が民間の流通に介入し、そのバランスをとろうとするところに特徴があった。

前者は商都揚州に「発運司(はつうんし)」という官庁を特設し、中央と連絡して官用物資の需給動向を調整しようとしたもの、後者は開封など主要都市に「市易務」という一種の官営銀行を新設し、農村の「青苗法」と同じく、中小の商人に小口の融資を実施し、市場の需給および物価・金利を調整しようとしたものである。いずれも大商人の壟断(ろうだん)と政府の損失をミニマムにするねらいがあった。

さらに役法(えきほう)の改革もあり、広義には行政改革といってよい。文字どおりには労役奉仕を意味する「役法」とは、ローカル末端の行政事務をその地元住民に無償、輪番で担わせるしくみだったからである。とくに治安の維持・納税のとりまとめ・物資の輸送保管などの役務が、中小地主層に課せられた。しばしば過重な負担で中間層の没落があいつぐ元凶となっていたことから、この義務労役を雇用労働に転換したのが「募役(ぼえき)法」である。労役から解放される者、免役特権を有する官僚層から「免役銭(めんえきせん)」を徴収して、労役従事者を雇いあげる財源とした。

また役法には、官庁の会計事務や帳簿整理など、複雑な行政事務もあって、その担当は専従化し、これを「胥吏(しょり)」という。やはり無償労働だったため、官庁と庶民を仲立ちする立場を利用し、事務取次の手数料を私的に設定して懐に入れる慣習が生まれた。法定によらない専従と金銭出納は、利権化に直結し汚職の温床となる。これを矯めようとするのが「河倉(かそう)法」だった。私的な手数料の収取を禁じ、代わりに胥吏に適正な給与を与え、また正規の官僚機構に組み込んで、上官への昇進をみとめることで、公金の流れを透明化し、組織の健全化をもたらそうとしたものである。

新法とは何か

おおよそ以上、数々の改革が、王安石執政の十年足らずの間で、矢継ぎ早に立案、実施されて、しかも程度の差こそあれ、相応の成果をあげた。それだけ実情を的確に把握し、弊害に即応した対策を立てえたわけで、驚くに値するといってよい。すぐれて合理的にすすんだのである。

新法の内容は、みてきたとおり多方面・多岐にわたっていた。けれども各々には一脈通じたところがある。

「青苗法」「均輸法」「市易法」では、民間の富裕層が利益を独占する経済過程に、政府が介入した。地主・富商が高利貸や投機で得ていた利益の一部を回収し、中小の農民・商人に再配分しつつ、政府収入に転換しようとしたものである。「保甲法」「保馬法」は政府業務を民間に委託したコストの削減、「募役法」「河倉法」は民間が一方的に負担し、利権化していた業務の専業化・制度化である。

つまりいずれの措置も、官民で偏ってきた負担関係を整理し合理化し、政府財政を好転させるのみならず、社会格差の平準化、秩序のたてなおしをめざすものだった。

改革には古今東西、抵抗がつきものである。既得権益を侵すからである。この新法の場合にも、激しい反対・抵抗があった。利益をとりあげられた地主・富商が官界を動かしたり、あるいは官僚自らが地主・富商だったケースも少なくなく、ともかく新法を推進した政権と鋭く対立する。

そこまでのいきさつは、注目しておいたほうがよい。すでに述べたとおり、王安石の登場と改革の推進は、ほぼ輿論の一致した待望だった。ところがいざ新法が始まってみると、有力な政治家たちは、軒並み反対派にまわる。先輩の欧陽脩・同輩の司馬光は当初より、はじめ協力した蘇軾・蘇轍は転身、など期待をかけていたはずの面々が、口を揃えて強硬な反対をとなえ出した。

これを旧法党といい、動機はおそらく、こんなはずではなかった、というにつきる。目前の課題は財政の再建であり、それだけなら、けだしなお許容範囲だった。けれども新法は究極には、政治家・有力者の存立基盤を脅かしかねない。少なくとも当事者には、そう感じられた。

新法のメスはそれだけ当時の社会の根柢(こんてい)に及んで、政権との関係を包括的に再編しようとしていたのである。冒頭に紹介した「富民」の「兼併」を「憎悪」した詩は、こうした形で具現化した。

そこで旧法党の批判は、新法が王朝祖宗の法に背き、「民と利を争う」ことに向かう。儒教的な倫理・イデオロギーに背馳(はいち)するという言い分であった。それまで政権が民間の自主自律に委ねていた領域に介入する政見政策は、政体の根本に適合しない。だとすれば新旧の対立は、いわば体制全体の原理的な次元に及んでいたことになる。

党争

そのうえ王安石は、徹底して合理主義だった。反対は予想していたことであり、まともに取りあっていては、「濮議」の二の舞になってしまう。そこで神宗の支持・庇護のもと、特命の組織を新設して、そこで若手・新進を登用し、仲間内だけで政策を決定、実行するかたわら、反対派を次々に排斥していった。司馬光もかくて下野し、廟堂を離れて古都洛陽に移り住み、『資治通鑑』の編纂にいそしむことになる。会社の窓際族が一室をもらって、社史を編纂するにひとしい。

こうした本来あるべき合意形成の手続きを踏まない政治手法は、輿論を顧(かえり)みぬものとして強い批判を受ける。司馬光自身も、のちに「介甫(王安石)は、ただただ執拗(いこぢ)だった」と述懐した。「拗相公(ようしょうこう)(拗ね者宰相)」という講談の典拠になったエピソードである。人のいうことを聞かない王安石の頑固な執政ぶりは、後世こうして徹底的に皮肉られた。それが合理主義をつきつめた結果であれば、いっそう皮肉ではある。

続きは書籍でお楽しみください

新潮社
2022年9月16日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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