コロナ禍で出会った男女の56日にわたる愛と悲劇を描いたサスペンス小説『56日間』試し読み

試し読み

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 パンデミック下の出会い、封印された過去、驚愕の真相、そして慟哭の結末――。
コロナ禍に生まれた奇跡のサスペンス小説が誕生した。

 新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、ダブリン市内の集合住宅で身元不明の男性の遺体が見つかる。遡ること56日、独身女性キアラは謎めいた男性オリヴァーと出会っていた。関係が深まるにつれ二人には、互いに明かせぬ秘密があるとわかるが……。
 本書は、遺体発見の現在と過去の日々を交互に描き、封印された過去の事件が徐々に明かされていくという、今日的なテーマに挑んだサスペンス小説の話題作です。
 今回は試し読みとして、冒頭の「今日」の章を紹介します。物語はこの後、「56日前」や「33日前」と、時系列を前後しながら語られていき、主人公の男女のロマンスと秘められた過去の事件の真相とが少しずつ明かされていくことになります。

今日

 リーは廊下に戻り、バスルームのドアを廊下の壁につくほど大きく開けるが、実際に触ることはしないようにする。取っ手に、いずれ採取する必要のある証拠となる価値あるものがついているかもしれない。

 そうしながら、彼女は自分を待っているものをちらりと目にして、喉の奥に何かがこみ上げるのを感じる。

 鼻から吸いこむようにしてミントの名残を探し、メンソールしか感じないと自分に言い聞かせる。犯罪現場でマスクをしたまま吐くのは、あまり見場のいいことではないだろう。

 早く終わらせてしまおう。

 リーは見下ろす。

 バスルームには窓がなくて、天井の照明がついている。死体は床に膝をついている。シャワー・ヘッドの真下で、顔をタイルに押しつけ、両腕を脇にたらしている。ジーンズのように見えるものとTシャツを着ている。裸足。短い、明るい茶色の髪。向こうを向いている。男性だと思われるが、確証はない。あまりよく見えず、現場を荒らさなければ見ることもできず、死体の一部は奇妙に変形している。ある部分は膨張し、ある部分は陥没している。腐食が進んだ状態だ。彼女の位置から見える、明らかな傷や出血はない。異臭を放つ濁った液体が死体のまわりに溜まり、漫画の吹き出しのように排水口へ続いている。皮膚は  

 彼女は大きく息を吸い、苦いものを飲み下し、気持ちを落ち着ける。

 皮膚は足裏、首の後ろと手前にある腕  死者の右腕  の肘から先にしか見えないが、それだけで充分ひどいものだった。足には皺が寄り、深い紫色で、腕の皮膚はずれているのがうかがえる。特別ひどい日焼けをしたあとのように、皮膚の上層部がむけている。

 少なくとも虫はいないと、彼女は自分に言い聞かせる。スライディング・ドアが開け放されていたら……今ごろすでに外に出て、吐くのに適当な場所を探していただろう。

 バスルームはウェットルーム様式で、平らな床全体が大理石模様の黒いタイルで覆われている。黒い金属枠にはまったガラス製のシャワー・パネルの横に、ガラスのドアがあったはずだが、今は千ものダイヤモンドの小片のようになって床じゅうに撒き散らされている。そのいくつかが、死者の髪にくっついているのが見える。

 彼女は振り向いて背後を見る。

 壁に、鏡のついている戸棚がある。それを開き、中を見る。たいして時間はかからない。ほかの部分と同様に、ほとんど空だ。

 使い捨てのマスクがいくつか、棚に積んである。育毛シャンプーの瓶。膏薬の箱と、小さな緑色の薬の包装シート。

 足の踏み場に注意しながら、彼女はそこについている印字がわかるかどうか近づいてみる。542と書いてあるようで、それが見たとおりのものであることがわかる。ロヒプノール、デートレイプに使われる薬だ。

 彼女は戸棚を閉め、洗面台に向かう。

 その上にある小さな戸棚以外は収納がないので、まもなく、このバスルームには歯を磨く用具(歯ブラシが一本)とトイレットペーパーがいくつか、そしてハンド・ソープの瓶以外は何もないということがわかる。あと、ドアの近くのフックにかかっているバスタオルだけだ。

 においのせいで、絶えずコーヒーが喉奥にこみ上げてくる。

 リーはまた死体のほうを向く。それ以上近づくと床上のガラス片やら何やらを動かすことになりかねないが、彼女はできるだけ身をかがめて、頭部を見ようとして  

 新たな角度から見ると、拳大ほどの蛆虫の塊が、左側のこめかみ近くにある傷のようなもののあたりで蠢いているのがわかり、彼女は吐き気を覚える。

 逃げたい。

 嘔吐したい。

 今すぐ吐きながらここから走り出たいと思うが、あと数秒だけ冷静でいようと考える、それだけあれば……

 彼女は傷の真向かいにある壁を見据え、そちらに向かってまっすぐに動き  

 あった。

 胸ぐらいの高さ、頭の上。茶色い汚れ。乾いた血。

 ぶつかった場所だ。

続きは書籍でお楽しみください

キャサリン・ライアン・ハワード(Catherine Ryan Howard)
1982年、アイルランド・コーク生れ。フランスやオランダで旅行関係、アメリカのディズニー・ワールドのホテル勤務を経験しながら、小説やノンフィクションを自費出版する。デビュー作『遭難信号』(2016年)はCWA新人賞(ジョン・クリーシー・ダガー)、翌々年発表した『The Liar’s Girl』は、MWA最優秀長篇賞の最終候補に選ばれる。さらに『The Nothing Man』(2020年)もCWA賞イアン・フレミング・スティール・ダガーの最終候補となった。

キャサリン・ライアン・ハワード

新潮社
2022年11月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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