「これは私のことだ……」あたたかな共感で満たしてくれる傑作 山本文緒『自転しながら公転する』試し読み

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恋愛、仕事、家族のこと……全部頑張るなんて無理!

母の看病のため実家に戻ってきた32歳の都。職場の頼りない店長、上司からのセクハラ、正社員への道、結婚の行方、母の具合は一進一退。ぐるぐると思い悩む都が出した答えとは――。

誰もが抱える悩みや焦りに焦点を当て、読者から圧倒的な支持を集めた山本文緒の傑作長編を試し読みで一部公開いたします。

 ***

「あの、すみません!」

急に不安になって都は慌てて彼らを呼び止めた。

「これって、このまま運転して帰って大丈夫でしょうか。途中でエンジン止まるってことはないでしょうか」

ふたりは都の切羽詰まった様子に顔を見合わせる。せっかくエンジンをかけてもらったが都は不安で仕方なかった。路上で止まってしまったらそれこそどうしたらいいのかわからない。すると丸眼鏡が寿司屋を肘でつつき、「カンちゃん、運転して送っていってやんなよ」と言った。

「そんな、それはいいです、悪いですから」

都が慌てて辞退すると、寿司屋は少し考える顔をしてから、じゃあそうすっかなと呟いた。

「いえ、本当にいいです! ごめんなさい、ありがとうございました」

「いいよ、こっちも心配だから」

そう言って彼は再び運転席に収まった。丸眼鏡はあっさり背を向け遠ざかってゆく。都はおずおずと助手席に座った。正直、困惑より助かった気持ちのほうが大きかった。

「こんなことになって、なんだかすみません」

「いいって。不安なのはわかるから。家はどの辺?」

甘えてしまったことが恥ずかしくて小声で住所を言うと、なんだおれんとこと近いじゃんと彼は笑った。あ、笑った顔を初めて見たと都は思った。

車は夜の中を走り出す。また風雨が強くなってきてワイパーが忙しく動いていた。ベンチシートの軽自動車なので運転席と助手席の距離は近く、知らない男の肉感が触れ合いそうなところに感じられて落ち着かない。考えてみれば最近仕事でもなんでも女性とばかり接していて、父親以外の男性をこれほど間近にするのは久しぶりだった。

「この車、中古で買ったの?」

前を向いたまま寿司屋が言った。

「え? はい、そうです」

「通勤にしか使ってない?」

「そうですね」

「最近エンジンかかりにくかったりした?」

「はい、朝なんかは一回でかからなかったです」

「たまには少し遠出しないとバッテリー上がりやすくなっちゃうよ。これ年式古いし気をつけたほうがいい。とにかくディーラーか修理工場に連絡してすぐ見てもらいなよ。もうすぐ車検なんだし出しちゃえば」

「え? どうして車検って知ってるんですか?」

「そこに貼ってある」

彼はフロントガラスの隅に貼ってあるシールを指して「車検ステッカー」と言った。都は「はあ」と返事をする。彼の無表情な横顔が、この女なんにもわかってないんだろうなと言っているようだ。

「いつも自転車通勤なんですか?」

そういえばこの人の名前も知らないなと思いながら都は聞いた。

山本文緒
(1962-2021)神奈川県生れ。OL生活を経て作家デビュー。1999(平成11)年『恋愛中毒』で吉川英治文学新人賞、2001(平成13)年『プラナリア』で直木賞、2021(令和3)年、『自転しながら公転する』で島清恋愛文学賞、中央公論文芸賞を受賞し、本屋大賞にもノミネートされる。著書に『絶対泣かない』『群青の夜の羽毛布』『落花流水』『そして私は一人になった』『ファースト・プライオリティー』『再婚生活』『アカペラ』『なぎさ』『ばにらさま』『残されたつぶやき』『無人島のふたり』など多数。

新潮社
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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