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- 風よ あらしよ 上
- 価格:990円(税込)
明治28年、福岡県今宿に生まれた伊藤野枝(いとう・のえ)は、貧しく不自由な生活から抜け出そうともがいていた。「絶対、このままで終わらん。絶対に……!」野心を胸に、叔父を頼って上京した野枝は、上野高等女学校に編入。教師の辻潤との出会いをきっかけに、運命が大きく動き出し──。
野枝自身、そして野枝を巡る人々──平塚らいてう、大杉栄らの視点で織りなす、圧巻の評伝小説。第55回吉川英治文学賞受賞作。2023年に作家デビュー30周年を迎えた村山由佳が アナキスト・伊藤野枝の短くも鮮烈な生涯を描き出す『風よ あらしよ』より、冒頭部分を公開します。
***
空が。
青い。
これほど青い空を、見たことがない。
その青が、なぜか、小さくて丸い。望遠鏡の筒を逆さから覗いたかのようだ。
自分ひとりが一条(ひとすじ)のスポットライトを浴びているようで、周囲は真っ暗だ。深いふかい穴の底にいるらしい。
腕も、脚も、胴体までも頼りなくて、ぐにゃぐにゃする。痛みは感じない。痛みどころか、何も感じない。――なにも。
誰か。わたしはここにいる。
呼ぼうとして、気づいた。
声が。
出ない。
序 章 天地無情
あらしが遠くに居座っていた。
その日、東京の街をゆく人々はしばしば突風に煽られては足もとをふらつかせた。今日から九月、台風は能登半島のあたりに停滞しているらしい。その影響で夜明けから雨粒まじりの南風が吹き、十時頃に雨があがってからも関東全域に強い風が吹き荒れていた。
強烈な陽射しが地面を炙る。熱をたっぷりとはらんだ風が、開け放った庭先から台所まで吹き込んで羽釜の下の炎を揺らす。
この調子では炊き上がりがむらになってしまうだろうが、かまうものか、食べられれば御の字だ。酢の物にするきゅうりをざくざくと刻む手を止め、野枝は庭を見やった。
濡れた手をかざし、眩暈(めまい)をこらえる。照りつける陽射しに、庭木や塀などの輪郭が白っぽく飛んでいる。豆腐を買いにちょっとそこまで出ただけでも、道の真ん中で蚯蚓(みみず)のように干からびそうになったほどだ。道行く人は誰もが可能な限りの薄着をし、日傘をさすか、頭にカンカン帽をのせるなどしていた。
軒先に干した子どもらの着物や下着が、風に激しくひるがえる。長女の魔子こそ数えで七歳になったものの、その下には年子が三人、一番下など先月生まれたばかりだ。おしめ一枚でも無駄に飛ばされてしまっては悔しい。
「俺も何か手伝おうか」
折良くひょいと顔を覗かせた良人(おっと)に、野枝は遠慮なく言った。
「じゃあ、洗濯ものを取り込んでたたんで下さいな」
「よしきた」
二つ返事で出て行った大杉が、日ざらしの縁側を裸足で踏むなり「あちちち」と飛び上がる。野枝は噴きだしながら俎板(まないた)に向き直った。
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