「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」親の終活を通し家族を問う傑作 桜木紫乃『家族じまい』試し読み

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「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」

妹からの電話で実家の状況を知った智代。かつて横暴だった父が、母の面倒をみているという。関わり薄くいられたのも、お互いの健康あればこそだった。長男長女、墓守、責任という言葉に距離を置いてきた日々。妹は二世帯同居を考えているようだ。親孝行に名を借りた無意識の打算はないか。家族という単位と役割を、北海道を舞台に問いかける傑作長編、桜木紫乃の『家族じまい』より冒頭部分を公開します。

 ***

第一章 智代

 月曜の朝、啓介の後頭部に十円玉大のハゲを見つけた。

「行ってきます」

 夫の言葉にはなんの濁りも陰りもない。顔のパーツがちいさな顔の真ん中に集まっているせいで、表情が読み取りにくいのはいつものことだ。

 職場へ出勤するというよりは戻ってゆくような穏やかな朝の顔に、智代も唇を横に引き伸ばし笑顔で応える。

「行ってらっしゃい、気をつけて」

 玄関先で見送ったあと、角を曲がるまでのあいだ、智代は窓から啓介の後ろ姿を追った。白髪の増えた短髪が、雪景色になじんでゆく。右肩を前後に揺らして歩く癖も速度も、若い頃と何も変わらぬような気はするが、雪景色のなかではどことなくちいさく見えるようになった。

 師走に入り、土曜と日曜は智代が終日美容室のパートに出ている。啓介の後頭部に出来た円形脱毛の、理由はわからない。ひと晩で抜けたものか、時間をかけて少しずつ広がったものか。

 あんな大きなハゲに今まで気づかなかった、という結果がぽんと朝の玄関に残された。客の頭髪ならば、どんなちいさな脱毛でも発見するのに、おかしな話だ。

 本人は気づいているのだろうか、という疑問が追いかけてくる。

 なるようにしかならない、は、啓介がよく口にする言葉だ。しなやかな柳のような男だと思っていた。しかしそんな夫の頭に、見事な肌色の円が出来ているのだった。

 智代はひとり玄関で「へぇ」と一回頷いた。驚きでも心配でも笑いでもない「へぇ」だった。息をひとつ吐いてから感情の在処(ありか)を探す。一拍おいてから掘り起こされる感情はいつもほんの少し冷えている。目の前の難題を大ごとにしないのが特技だとばかり思っていた男の身に、髪が抜けるほどの出来事が起こっているらしい。さあどうしようか、と次の一歩を探している智代も、悩む時間を飛ばしている。

桜木紫乃
1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で「オール讀物」新人賞を受賞。07年に同作を収録した単行本『氷平線』を刊行。13年『ラブレス』で島清恋愛文学賞を受賞。同年、『ホテルローヤル』で第149回直木賞を受賞し、ベストセラーとなる。20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸書を受賞。他の著書に『起終点駅(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』『孤蝶の城』など多数。

集英社
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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