舞台人の業の深さ、死せる妹への禁断の恋……「オペラ座の怪人」をモチーフに芝居小屋で繰り広げられる悲劇を描いた時代小説 乾緑郎『戯場國の怪人』試し読み

試し読み

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 長年演劇界に身を投じてきた乾緑郎が、かの有名な「オペラ座の怪人」をオマージュして、役者の業と禁断の恋を描き切った時代長編小説『戯場國の怪人』。

 本作の舞台は、桟敷席を予約し続ける謎の人物の噂が立つ江戸市村座。女形瀬川菊之丞、戯作者平賀源内、二代目市川團十郎、講釈師深井志道軒、広島藩士稲生武太夫、大奥御年寄江島らを巻き込み、芝居小屋の地下で蠢く時を超えた怨讐、恋着、役者の業火等々、虚実のあわいを壮大に盛り込んだ伝奇エンターテインメントです。

 今回は試し読みとして、物語のきっかけとなる「序」を公開します。

 ***

     序

 あの犬の舌、暑さでとろけてしまうのではないかしらん。
 大川(隅田川)に浮かぶ屋形船の垣立に寄り掛かり、自分の顔を団扇で扇いでいた瀬川菊之丞は、岸際に繁る葦の葉の間から頭を出して水を舐めている痩せ犬の姿を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
 この辺りはもう、だいぶ海の水が入ってきているから、きっとしょっぱいでしょうに。
 それでも我慢できないほど喉が渇いていたのだろう。今年は梅雨が長く、それだけ、例年に比べ暑さも増している。
 宝暦十三年(一七六三)、六月十五日――。
「路考さん、あまり目立つと大騒ぎになりますよ」
 一緒に舟遊びにやってきた若い役者が、屋形船の中から顔を覗かせ、声を掛けてくる。路考というのは菊之丞の俳号であり、同時に愛称のようなものだ。
「大丈夫よ。水の上だもの」
 菊之丞はそう答えると、やんわりと微笑んでみせた。
 暑さのせいか、大川に浮かぶ納涼のための涼舟の数も多い。菊之丞らを乗せた屋形船は、佃島の辺りまで繰り出した後、向島にある舟宿に戻るため、大川を遡上している最中だった。
「あっ」
 すれ違っていく猪牙舟に乗った男が、額に紫帽子を載せた菊之丞の姿を見て、驚きの声を上げた。芝居小屋で顔を見たことがあるのか、そこにいるのが菊之丞だと気づいたようだ。
 苦笑いを浮かべ、菊之丞は男に向かって手を振る。菊之丞のその振る舞いに、男は感極まったような表情を見せたが、猪牙舟は無情に川の流れに押され、みるみると遠ざかって行った。
 これが町中、それも芝居小屋のある葺屋町の辺りなどであれば、あっという間に人集りができているところだ。
 菊之丞は立ち上がると、屋形船の中に入った。
 女形たるもの平生も女子として暮らし、女子として生きるべしと、幼い頃から厳しく仕込まれていた。体は男であっても、芝居にのめり込むうちに、いつの間にか心の奥底まで女と化してしまった。自分は女だから、男しか愛せない。菊之丞はそう思っていた。
「路考姐さん、蜆を採りに行きませんか」
 早速、柔らかい笑顔を浮かべて菊之丞の傍らに寄ってきたのは、この涼舟を仕立てた荻野八重桐という女形だった。今年二十三になる菊之丞より十五歳も年上だが、ほんの二つか三つくらいの違いしかないように見え、その上、妙な艶っぽさも併せ持っている。
 八重桐と菊之丞は、二人とも養子として先代の菊之丞の下で育ち、芸を仕込まれた仲だった。
 結局、瀬川菊之丞の名跡は、今や江戸若女形の筆頭と言われるまでになった路考が継ぐことになったが、八重桐がそのことで菊之丞に辛く当たったことはない。二代目を助けてやって欲しいとの先代の末期の詞を頑なに守り、年長であるにも拘わらず、菊之丞を姐さんと呼んで立ててくれる。菊之丞にとって八重桐は、兄弟子というよりは血を分けた実の姉のような存在だった。
「しじみ?」
 きょとんとした表情を浮かべ、菊之丞は答える。
 周囲の舟からは三味線の音色や長唄などが聞こえてくるが、この舟の宴は静かなものだった。
 乗っているのは菊之丞を始めとして、江戸では名の知れた芸達者ばかりだ。普段から歌や踊りや芝居の稽古漬けの生活をしているのだから、宴席もそれでは身も心も休まらない。大川に吹く涼しい風と景色を楽しみながら香包をくゆらせ、静かに盃を交わす。そんな品の良い宴だった。
八重桐の話によると、菊之丞が風に当たっている間に、業平橋の辺りにある中洲に蜆を採りに行こうという話が盛り上がっていたらしい。屋形船は大川の岸に係留して小舟に乗り換え、源兵衛堀からそちらに向かおうということになったようだ。
「私はいいわ」
 八重桐たちの無邪気さに、菊之丞は微かに笑みを浮かべる。
 なかなか面白そうではあるが、少し酔いも回ってきているし、さすがに手や着物を泥だらけにして蜆を採ろうという気にはなれなかった。普段は煌びやかな世界にいるから、皆、そんな子供のような遊びの方が楽しいのだろう。
 数人の役者たちが、菊之丞が屋形船に残ると聞いて、残念そうな声を上げた。
 だが、こんな時も八重桐は無理に菊之丞を誘い出そうとはしない。路考は案じかけの発句があるらしいから、気が向いたら後から来るだろうと他の者たちを宥めてくれた。
「たくさん採れたら、路考姐さんにも分けてあげますからね」
「ありがとう。楽しみに待っているわ」
 張り切った様子で言う八重桐を見送り、離れて行く小舟に向かって手を振ると、菊之丞は少し休もうと、屋形船の桟敷の上に横になった。
 それが生きた八重桐の姿の見納めになろうとは、その時の菊之丞は思ってもみなかった。

続きは書籍でお楽しみください

乾緑郎
1971年、東京都生まれ。鍼灸師の傍ら、小劇場を中心に舞台俳優、演出家、劇作家として活動。2010年、『忍び外伝』で第2回朝日時代小説大賞を、『完全なる首長竜の日』で第9回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞。著書に「機巧のイヴ」シリーズ、「鷹野鍼灸院の事件簿」シリーズ、『ねなしぐさ 平賀源内の殺人』『愚か者の島』『仇討検校』などがある。

新潮社
2023年8月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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