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- 君が手にするはずだった黄金について
- 価格:1,760円(税込)
いま最も注目を集める直木賞作家が描くのは、承認欲求のなれの果て。
青山の占い師、80億円を動かすトレーダー、ロレックス・デイトナを巻く漫画家……。主人公<小川哲>が怪しげな人々と遭遇する連作短篇集『君が手にするはずだった黄金について』。
本書は、2015年に『ユートロニカのこちら側』でデビューして以来、『ゲームの王国』『地図と拳』『君のクイズ』などSFから歴史、ミステリまで幅広いジャンルで評価されている小川哲氏の直木賞受賞第一作です。
今回は試し読みとして、表題作「君が手にするはずだった黄金について」の冒頭部分を紹介します。負けず嫌いで口だけ達者、東大に行って起業すると豪語していたのに、どこか地方の私大で情報商材を売りつけていて……。そんな高校の同級生・片桐が、今や80億円を運用して六本木のタワマンに暮らす有名投資家になっていたことを知った<小川>。ある日、片桐の有料ブログがとつぜん炎上しはじめて――。
***
僕の知る限り、多くの道徳的な規則は「黄金律」に基づいている。「自分がしてほしいことを他人にしましょう」というやつだ。この原理は法律における憲法や幾何学における公理のようなもので、古代ギリシャ以前から道徳体系を基礎づけている。
「黄金律」を裏返すと「自分がしてほしくないことは他人にしないようにしましょう」となり、これは「銀色律」などと呼ばれている。この二つの原理を叩きこむことが、おそらく道徳教育においてもっとも重要だとされていて、かくいう僕も幼少期からそうやって育てられてきた。
それなりに人生経験を積んできた人には心当たりがあるはずだと思うが、「黄金律」と「銀色律」には大きな罠がある。「自分がしてほしいこと」や「自分がしてほしくないこと」には人それぞれ違いがあるということだ。ときとして、その違いはお互いの心を傷つける刃となってしまう。僕はそのせいで何度か痛い目にあってきたし、他人を痛い目にあわせてしまったこともあった。
「厳しく指導されて成長したい」と思っている人は、良かれと思って他人に厳しく指導をしてしまう。「性的指向を聞かれても嫌ではない」と思っている人は、他人に対して不用意に性的指向を聞いてしまうことがある。どちらも道徳の原理に従った結果で、相手に嫌な思いをさせるつもりがないだけ具合が悪い。こういったことはよく起こる。道徳規則として間違っているわけではないので、傷ついたり嫌な思いをした人が不平を言っても、当人にはなかなか伝わらなかったりもする。思うに、二十一世紀の「黄金律」と「銀色律」には、以下のような注釈が必要だろう。「※ただし、『してほしいこと』や『してほしくないこと』は個人によって差があります」
たとえば僕は、道に迷ったとき、適当にいろんな道に入っていき、知らない景色の中で試行錯誤するのが好きだ。悩みごとがあっても他人に相談せず、自分なりに解決の糸口を見つけようとする性格は、間違いなく創作の助けになっている。普遍化すれば「何かに困っているとき、その原因を調べて自力で解決するのが好きだ」とも言えるかもしれない。裏を返すと、「いちいち他人に口を出されることが好きではない」となる。
それゆえ、目の前で困っている人に助け舟を出すことに躊躇してしまう。揉めごとがあったとき、事実関係を知らない第三者に口を出されるのがとても嫌いなので、喧嘩をしている人を見ても、わざわざ仲裁するより当人間で解決する方が望ましいと考えてしまう。僕なりに考えた結果、「何もしない」という結論に至ることもあるのだけれど、多くの場合は「冷たい人」という風に見られているように感じる。そう言われてしまうと、たしかに自分でも否定しようがない。
価値観の違う人間に「黄金律」を押しつけられたときほど厄介なことはない。必要のないお節介や、必要のない忠告を与えられただけでもいい気分はしないというのに、本人は良かれと思ってやっている。
そういった経験について考えるとき、いち早く思い浮かぶのが高校の同級生の片桐のことだ。片桐は僕と真逆の価値観を持った人間で、とにかく他人に口を出すのが好きな男だった。
四年前の話だ。いろいろと偶然が重なり、二人でスーパー銭湯に行ったことがあった。風呂からあがり、休憩所で食事をしながら少し話をして、僕の車で彼を自宅の近くまで送った。その道中で、助手席に座った片桐はとにかく口うるさかった。「次の次で右折するから車線を変えておいた方がいい」だとか、「前の車がブレーキを踏んだから減速するべき」だとか、言われなくてもわかっていることをいちいち口にしてきた。最初は「オッケー」などと反応していたけれど、途中から僕は一言も喋らずに無視するようになった。それでも片桐は、僕が不機嫌なことに気づかないようで、降車する瞬間まで不必要なアドバイスを口にし続けていた。
僕の価値観に同意してもらえるかどうかはさておき、運転中に助手席からあれこれ言われて苛立つ気持ちは、それなりに理解してもらえるのではないか。そもそも、風呂に入ったあとの帰り道で、別に急いでいるわけでもないのだから、もし右折のタイミングを逃してしまって余計に時間がかかっても問題ないだろう。夜のドライブをゆっくり楽しめばいい。道を間違えることをどうしてそんなに恐れているのか、僕には理解ができなかった。
片桐と初めて話をしたのは高校一年の九月だった。もしかしたらそれより前にも話をしたことがあったのかもしれないけれど、少なくとも僕は覚えていない。たしか体育祭の一ヶ月くらい前で、クラス対抗リレーに誰が出場するか、放課後に話し合いをした。
ちょうどその日の体育の授業で、五十メートル走のタイムを計測していた。タイムが速かった人から順に、男女それぞれ四人をリレーの選手にしようということで話がまとまりかけていた。僕はちょうど上から四番目だった。自分の脚力に自信があったわけではなかったけれど、たまたまその日調子がよかったのか、体育教師が計測ミスをしたのか、とにかく何かの間違いで僕はリレーの選手に選ばれてしまった。
「ちょっと待て」と異議を唱えたのが片桐だった。「絶対におかしい。間違いなく、俺は小川より足が速い。お前が走れば恥をかくに決まってる」
たしか片桐は五番目のタイムだったはずで、リレーの選手になれなかったことが悔しかったのか、急に僕に文句をつけてきた。クラスメイト全員の前でバカにされたような気がして、僕も少しムッとしてしまい、それなりに強い語調で「その話に根拠はあんのか」と反論した。実のところ、僕はリレーなんかには出たくなかった。そもそも僕はそれほど足が速いわけではなかったので、誰かを追い抜いて英雄になる確率より、誰かに追い抜かれて恥をかく確率の方が高いと思っていたし、放課後に集まってバトン練習をしたりするのも面倒で嫌だった。誰かが代わってくれるなら、すすんで譲りたいくらいだった。素直に「リレーに出たいから代わってくれ」と言われたら、すんなり承諾していただろう。当時の僕はきっと、片桐の「余計なお世話」に苛立っていたのだった。
僕と片桐は、何往復かちょっとした言い合いをした。「どっちの足が速いか」みたいな、幼稚な口論だった。最終的に片桐が「今から校庭で決着をつけよう」と提案したところで、僕は急に白けてしまった。
「わかった」と僕は言った。「お前の方が速いよ。話してみてわかったけど、お前がこの世界で一番速いに違いない。だから、ぜひ代わりにリレーに出て、クラスを優勝に導いてくれ」
皮肉のつもりだったけれど、幸か不幸か片桐には文字通り伝わったようだった。片桐は得意そうな表情で「わかればいいんだよ」とうなずいた。「俺に任せろ」
どういうわけか、この一件以来、僕は片桐から妙に懐かれてしまった。「懐かれてしまった」という表現が正しいかわからないけれど、そうとしか言いようがない(ちなみに片桐は、本番のリレーで二人に追い抜かれた)。
修学旅行や文化祭では同じ班に入ってきたし、放課後に誘われてよく一緒にカラオケに行った。僕が予備校で夏期講習を受けたときは、片桐も勝手に同じ講座を選択した。僕が読んだ漫画を読み、僕が読んだ本を読んだ。僕がマクドナルドでバイトを始めると、同じ職場にやってきた。
初めて話した瞬間からずっと僕は片桐を軽蔑していたけれど、別に嫌いなわけではなかった。片桐は人間としてみっともないことを平気でするし、器が小さいとしか言いようがない発言をよく口にした。自己評価が異様に高く、口だけが達者で、それでいて結果は出さなかった。でも特に、誰かを傷つけているわけではなかった。賛否はわかれると思うが、「良いこと」のような実績も作っていた。不登校ぎみだったクラスメイトの家まで行って、学校に連れてきたことなんかもあったのだ。それにそもそも僕たちは当時高校生で、人間としてとても未熟だった。僕だって、思い返すだけで自分の首を切り落としたくなるほどみっともないことをいくつもしてきた。片桐の幼稚な発言や行動を、他人事にできるほど立派な人間でもなかった。
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