「このキーボードだけはいじっちゃだめ!」「ああああああ!」
3万円のキーボードを台無しにされ、10万円のイヤホンのコードは噛み千切られる……。ベンチャー企業の経営企画室で過酷な労働に従事しながら他社との関わりを避けるように「完璧な仕事」をこなしてきた36歳の会社員・刑部慧太(おさかべけいた)。しかし、彼の日常は、保護猫を迎えたことにより一変する。拠り所にしていた「完璧」を崩された彼に、猫がもたらしたものとは――。
犬も猫もどちらも愛でられる8篇の物語が詰まったアンソロジー『もふもふ 犬猫まみれの短編集』(新潮文庫nex)収録作品のうち、吉高由里子さん主演ドラマで話題となった『わたし、定時で帰ります。』の著者・朱野帰子さんが書き下ろしたスピンオフ作品「昨日もキーボードがめちゃくちゃになりました」の一部を特別公開! 猫のいる生活が堪能できる物語をお楽しみください。
昨日もキーボードがめちゃくちゃになりました
コロナ禍がはじまって一年たったころ、会社が「週一回出社するように」と言ってきた。が、刑部慧太(おさかべけいた)は家から出られなくなってしまっていた。
猫にめちゃくちゃにされてしまっていたのだ。
話は数週間前に遡る。吉祥寺にあるマンションで、刑部慧太は不穏な朝を迎えていた。いつもなら六時半には胸にどっしりと体重がのせられ、ナーという呼び声がする。それでも起きないでいると、唇の皮膚の上に細い爪がかかる。それでも目を開けずにいると、鼻をガブッと甘噛みされる。かなり痛いので起きざるを得ない。……はずなのだが、今日は猫が起こしにこない。スマホの時計を見ると七時だ。寝室は静まりかえっている。リビングのほうからも、そして仕事部屋のほうからも何も聞こえない。
寝たまま耳をすませていると、カリッ、カリッ、という音が遠くから聞こえてきた。なにか大事なものが損なわれている予感に駆られ、慧太は上半身を跳ね上げた。
猫はどこにいる? 布団を足で除け、寝室を出て、パジャマの裾から出た裸足で床を蹴り、リビングを歩いて行き、その奥にある仕事部屋にたどりつく。ドアはない。前にこのマンションに住んでいた持ち主も一人暮らしだったらしく、寝室以外がオープンな作りになっているのだ。
カリッ、カリッ、という音は完璧にセッティングされたデスクから聞こえてくる。
慧太の大事なキーボードの上に猫はいた。
背中を丸めてキーボードをいじっている。慧太が忍び足で近づいてきたことにも気づかない。「何してるの?」と話しかけると、肩がびくっと動いた。小さな頭蓋骨がめぐらされ、金色の丸い目が見開かれた。こちらを凝視している。
慧太の視線は猫の前脚の先に動いた。爪がキーの下に差し込まれていた。
「ちょっ」慧太の声がうわずる。「キーを外そうとしてる? だめだよ!」
あわてて猫を抱き上げて床に降ろす。そして「起きるのが遅れてごめん、朝ご飯食べよう」とキッチンに向かおうとした。しかし猫はついてくるそぶりはするものの、右の前脚を宙に浮かせ、頭をデスクの方へ向けている。
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- もふもふ:犬猫まみれの短編集
- 価格:693円(税込)
猫が見ているのは慧太のキーボード。その名はリアルフォースだ。東プレという日本のメーカーが開発したハイエンドキーボード。一つひとつのキーが独立していて、キーキャップを外した下に「軸」と呼ばれるスイッチがついているのが特徴だ。この軸は種類がたくさんあるのだが、慧太が持っているリアルフォースが採用しているのはそのどれとも一線を画す静電容量無接点方式。
キーが押し込まれ電極同士が一定レベルまで接近すると、静電容量の変化を検知して入力されたことを伝える仕組みになっている。力を入れなくてもキーがスコッと沈みこんでいく感覚は病みつきになる。打鍵音は静かでミスタッチを防ぐとも言われている。キーボードに興味がない人には何を言っているのかわからないだろうが、東プレのキーボードは正確な入力を要求される業界の人たちから愛されてきた。
仕事で使うものだからこそ、余計なノイズがあってはいけないと、デザインは現在のシリーズになってからさらに美しくなった。無線接続可能なのでケーブルも必要ない。ゆえに高額である。三万円もした。
「このキーボードだけはいじっちゃだめ!」
慧太は両腕を広げると、猫をわしゃっと抱き上げ、仕事場の外に出した。
キッチンでキャットフードを皿に開けて「食べな」と声をかけたが、いつもはスタタタタと寄ってくる猫がこない。もしやとふりかえると、猫は仕事場に戻って、デスクに飛び乗っていた。
リアルフォースの公式サイトにはこう書いてある。
「仕事にプライドを持ち、一切の妥協をせず、目標に向かって夢中で取り組む“本気な人”のために。その能力を最大限に発揮するための高品質な道具を提供しています」
そんなキーボードの下に猫は爪を差し込んでいる。カリッとやっている。
「だからだめだって!」慧太は猫をキーボードから剥がそうとしたが、爪がキーに引っかかったままだ。爪もキーボードも傷つけないように外そうとしていると、猫は前脚を跳ね上げた。カリッ!
「delete」キーが宙に舞った。
あっ、という間もなく床に落ちた。猫は体をうねらせ、慧太の胸を蹴って、床に降りたち、体をぴたりと止め、前脚だけでそーっと「delete」キーを触った。そして「待て!」という間もなく、前脚を大きく振りかぶると「delete」を打った。かなりの飛距離が出て「delete」は壁に跳ね返り、作りつけのクローゼットの下の小さな隙間に転がりこんでいった。
このマンションは一年前に中古で購入した。このクローゼットは前の住人が作って置いていったものなのだが、床との間に隙間を作っておくなんて迂闊にもほどがある。猫が猫用のおやつ、ちゅ~るで遊んでいて、この隙間に蹴り入れてしまい「出せない」と怒ることもしばしばあった。クイックルワイパーの柄の部分を入れるには狭いし、菜箸では長さが足りない。まあ、ちゅ~るはまた買えばいいし、隙間はいつか塞ごう。そう思っていた。その油断と先延ばしの間隙へ「delete」のキーは入っていった。
「ああ」と跪いて隙間を覗いている慧太の後ろで、カリッと音がした。ふりかえると猫は次のキーを剥がしていた。立ち上がってどのキーか見る。「S」だ。
「だめだめだめ、それよく使うキーだから!」
だが猫は慣れたものだ。「S」をカリッと外すと床に落っことし、慧太が追いつく前に飛び降り、両手でキーを揉んでいる。キーが弾かれて転がると、興奮してまた飛びつく。「S」をドリブルしながら、猫はリビングの方へ走っていく。
「お願い、返して」
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。
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