追い詰められた「内海文三」たちの今

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ホサナ = HOSANNA

『ホサナ = HOSANNA』

著者
町田, 康, 1962-
出版社
講談社
ISBN
9784062205801
価格
2,420円(税込)

書籍情報:openBD

追い詰められた「内海文三」たちの今

[レビュアー] 友田健太郎(文芸評論家)

 最近二葉亭四迷の『浮雲』を読み返していて、これはまるで町田康の小説ではないかと思った。主人公内海文三は言いたいことは思うように言えず、したいこともできず、いたって不器用な男なのだが、心の中は言葉であふれている。例えば、思いを寄せるお勢に振られかかっている時――
 「ナニおれだッて男子だ 心がわりのした者に未練は残らん 断然手を切ッてしまって 今度こそは思い切ッて非常な事をして非常な豪胆を示して本田(ライバルの名)をとりひしいで そしてお勢にも……お勢にも後悔さして……そして……そして(岩波文庫版をもとに一部漢字表記をひらいた)
 「未練は残らん」と言いながら未練たっぷり、「おれだッて男子」と言いながら女々しいことこの上なく、「豪胆」も他人に「示す」ためのもの。プライドばかり高く、そのくせ他人の眼に映る自分が全て。空っぽなのに自分は誠実で中身がある人間だとなぜか信じている。要するに、町田の主人公と全く同じである。何のことはない、近代小説の始めから主人公の男たちはこうだったのだ。ただ、かつてはそれは「知識人の苦悩」(!)などと言われていたが、町田の小説では明らかに滑稽なものとして描かれている。世の中ちょっとは進歩したということであろうか。
 町田の主人公のほとんどは、依拠するものを持たない、はずれ者の男である。彼らは自分なりの正義を追い求めるが、それが身勝手で恣意的なものであることは読者の眼には明らかだ。それでも彼らは言葉を口にすることを止められない。それは日本の近代が、男たちの言葉(「尊王攘夷」「一君万民」など)から生まれたからであり、彼らはその精神的な後継者だからだ。維新の成果を回収した官僚機構を憎み、正義の勝利を夢見る「内海文三」たち。「革命」が終わり、言葉が現実を変える力を失っても、彼らは言葉から離れられない。無残なずれが明らかになるたびに、それに目をつぶって遁走する。だから何も手にすることができず、放浪を続けるしかないのである。
『ホサナ』は『告白』『宿屋めぐり』に続く町田の大長編三作目である。『ホサナ』には『宿屋めぐり』が出た二〇〇八年以降に日本社会で起こった様々な出来事が反映されており、特に大災害の襲来を思わせる冒頭は圧巻である。その後も階級社会化や労働者の奴隷化を連想させるモチーフ、犬の譲渡を目的とする団体内の権力闘争、犬の演劇、地下で安全に暮らす特権階級の打倒を目指す謀略といった読者の興味を惹くトピックが多数登場する。しかし、それらは一つとして深められることはなく、主人公の立場や境遇が目まぐるしく変わるとともに、次から次へと過去のものとなっていく。後に残るのは何か索漠とした読み味だ。さながら大震災で二万人を超える死者を出しながらも腰を据えて社会の抱える問題に取り組めず、何一つ変わらなかったこの国を見るようである。
 町田の初期短編の多くに共通する特徴に、副主人公の存在があった。副主人公は主人公よりも年下の男性であり、主人公の会話の相手となり、しばしば放浪を共にする。男たちの会話が作品の雰囲気を規定し、関係性の変化はドラマの推進力となった。『告白』の熊太郎と弥五郎はその完成形である。その後の『宿屋めぐり』には副主人公は登場しなかった。
 『ホサナ』には再び副主人公が登場する。主人公の飼い犬である。主人公は常に白い犬を連れているが、途中からその犬の心が理解できるようになり、テレパシーで会話を交わす。主人公が見舞われるさまざまな苦難を乗り越える上で、天才的な頭脳を持つこの犬が大きな助けとなる。犬の活躍と主人公との会話はこの小説の大きな魅力である。
 だが、この楽しい「会話」は主人公の妄想である可能性も残されている。ラストに描かれているのは、「外部」を夢見て結局どこにも行きつけず、救いを求めながら滅んでいく「私」たちである。それは追い詰められた「内海文三」たちの今を表すものとして、極めて説得的であった。

週刊読書人
2017年6月9日(第3193号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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