君臨の現代的意義を求めて――『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』

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君臨の現代的意義を求めて

[レビュアー] 待鳥聡史(京都大学教授)

 現代の国家にとって、君主を戴く意味は何か。これが本書を貫く基本的な問いである。ほんの一〇〇年前まで、内乱や革命の結果として君主やその一族が命を奪われたり、亡命を余儀なくされることは、主要国にあっても何ら珍しいことではなかった。中国の辛亥革命は一九一一年、ロシア革命は一九一七年、ドイツ革命は一九一八年のことである。

 君主の地位や、ときとして生命さえも脅かされた理由は、君主が政治権力を握っていたからである。支配する国内において、ときに反対派を押し切って課税を行い、また国力を尽くして戦争を遂行することができる君主は、それらが期待された結果をもたらさなかった場合には、強い反発を引き起こすことになる。血なまぐさい内乱や革命は、君主の持つ政治権力と表裏一体だったのである。

 今日、君主を戴く国家であったとしても、政治権力は既に君主の手から離れている。著者も言及しているように、湾岸産油国やブルネイなど、君主が政治権力を握り、実質的に何らの制約も受けない国家が世界には依然として存在する。しかし、ネパールが二〇〇八年に王制を廃したように、これらの絶対君主制は緩やかに消滅に向かっていると考えるべきなのだろう。

 政治権力の所在とその行使に最大の関心を向ける政治学において、立憲君主制は今日、体系的に検討されているテーマだとはいえない。政治体制の標準的な分類では、本書が取り上げる立憲君主制はほぼすべてが民主主義体制(民主制)に含められる。アジアの立憲君主制の場合、政治的自由が抑圧され権威主義体制に分類される例もあるが、それも君主の存在が理由ではない。今日の立憲君主制は、政治学にとって「歴史的な事情などから採用している国家があるが、それ自体はとくに意味のないもの」なのである。

 しかし、本当にそうなのだろうか。近代イギリスの政治史を長らく考えてきた著者にとって、「君臨すれども統治せず」だからといって、その国の政治や社会に君主のもたらすものがないと見なすのは、明らかに過小評価である。バジョットやレーヴェンシュタインの古典的な憲政論においては、立憲君主制の下で君主が君臨することの意義が説かれた。彼らの著作は一九世紀後半や二〇世紀前半の立憲君主制を対象にしており、その議論を二一世紀の今日に直接持ち込むことはできない。著者は、彼らの著作とイギリス王室に関する深い学識を出発点に、君臨の現代的意味を探求する旅を始める。

 イギリス、北欧、ベネルクス、アジアの立憲君主制諸国を巡ることで著者が見出すのは、大権は形式化していても、君主の存在そのものがその国の政治と社会の安定にもたらす効果である。北欧やベネルクス諸国の王室などではさらに進んで、望ましい社会像や家族像の提示にまで至っている。現代の立憲君主制がもたらすこのような効果は、本書のような関心とアプローチによってしか明らかにすることはできなかったであろう。

 たとえば、ノルウェーの国王は二〇一二年の憲法改正によって国教会の首長ではなくなった。国内における宗教的多様性を含む「多文化共生」への配慮からである。また、オランダのベアトリクス女王は二〇一三年に長男のウィレム・アレクサンダー皇太子に譲位した。高齢となった場合にどのような行動をとるべきか、君主自らが示したのである。女性の王位継承はごく一般的で、男女の別なく先に生まれた子に継承させる「絶対的長子相続制」も、北欧やベネルクス諸国では広く導入されている。

 そして最後に著者が視線を向けるのは、日本の皇室である。日本国憲法の下、政治権力なき象徴天皇制になることは、二〇世紀後半の立憲君主制の方向性として標準的であった。平成の時代に入って、現在の明仁天皇と美智子皇后が進めてきた公務のあり方は、どのように考えるべきなのだろうか。来年五月の皇位継承後も続けていけるだろうか。立憲君主制の現代的意味を究めた著者が、これらの点について述べる見解は傾聴に値する。是非とも、本書を手にとった方それぞれに考えていただきたいと思う。

新潮社 波
2018年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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