偶然にも同じ物語設定の2作品、「文學界」と「文藝」

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偶然にも同じ物語設定の2作品、「文學界」と「文藝」

[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)


文學界2018年5月号

「資質も違えば方法意識も異る何人もの作家たちが、いつとはなしに同じ物語を語り始めている」と書いたのは蓮實重彥だが(『小説から遠く離れて』)、高橋弘希「送り火」(文學界5月号)と水原涼「少年たち」(文藝夏号)を読んでその一節を思い出した。

 どちらも舞台は、東京から遠く離れた寂れた集落の、じき統廃合が進みそうな中学校だ。学校には代々続く不良グループがあって、独自のゲームやルールが伝承されている。その小さな共同体に外部からメンバーが加わる。ゲームとルールが暴走して、共同体に暴力とカタストロフをもたらす。

「送り火」と「少年たち」の舞台はそれぞれ青森県と鳥取県。いずれも作者の出身地である。まれびとはともに掟と伝統を十分に共有しない転校生で、前者では東京から来た環境に従順な語り手、後者ではサイコ気味の反逆者という設定の違いがあり、致命的破壊を受ける者、与える者と役割も正反対を向いているものの、秩序のバランスを崩す存在という点は共通している。

 作品のテイストや目指しているだろうところはまったく違っているにもかかわらず、ここまで似た物語が同時に出たシンクロニシティが興味深い。両者ともカタストロフが容易に予想できてしまうことも含めて。

 今月は文學界新人賞の発表があったが、受賞作なしという結果だった。新人賞には大きく二つの考え方がある。ともかく世に新人を出すことに意義があるとする見方、水準に達しないなら授賞するべきでないという見方で、賞の性格によって比重は変わってくるが、なにしろコストのかかる事業だ、近年は「出す」方向に業界の思惑は一致して動いてきている。芥川賞(これも新人賞である)で「受賞作なし」だった回って最近は滅多にないですよね?

 純文学の新人賞など、基本的にはいつだって低調なものだ(生存率の低さを見れば想像がつこう)。技術はむしろ上がっているが「文芸誌向け」のチューンばかりで、しかし「文芸誌向け」の小説なんて実はもはや文芸誌には載っていないのだという円城塔選考委員の指摘が示唆的である。

新潮社 週刊新潮
2018年5月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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