遭難か、リストラか 純文学には珍しい山岳小説「バリ山行」
[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)
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小説が少ない。次の芥川賞まで間のある1~3月号あたりの文芸誌は新人小説の掲載が控え目になりがちだが、今3月号は小説の数自体が非常に少ない。読切小説が、10ページ前後の掌篇まで含めても4誌で8作、新人小説は2作しかない。
文芸誌が手を引き始めて久しい文芸評論ももちろんわずかしかない。『文學界』で広義の文芸批評と呼べそうな江南亜美子の連載「「わたし」はひとつのポータル」が始まったが、近年では例外的なものだ。『群像』の名物「創作合評」も1年半休載しているし、書評の数も漸減気味である。
じゃあ何が載っているのか。「色々」である。文学と関係があったりなかったりする特集や雑文やインタビューや対談や座談会がごちゃごちゃと載っている―それが文芸誌の現状である。
さて今回は、2作しかない新人小説から、松永K三蔵「バリ山行」(群像)を取り上げたい。「K」はミドルネームだそうだ。
「バリ」が謎だが、「バリエーションルート」の略で、「通常の登山道でない道を行く。破線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道。そういう道やそこを行くことを指す」と明かされる。純文学には珍しい山岳小説なのだ。
山岳小説といえば、死と背中合わせのヒリヒリしたスリルが身上であり、本作も無論踏襲している。だが一捻りあって、リストラに直面しているサラリーマンの日常の「危機」と、バリ山行で遭遇する「危機」が並列される。
社員の親睦を図る登山企画に参加するうち「私」は山にはまるが、会社が傾くのに連れて「整備された道」を「歩かされている」ような登山に飽き足らなくなる。社内で孤立しながら意に介さない変人でバリの達人の妻鹿に「私」はバリに連れていってもらうが、体力の限界を超え死にかけて、妻鹿に八つ当たりのように憤懣をぶちまける。
「本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」
最後が予定調和的だが、最初バリを称えていた「私」が自然に打ち負かされていく過程の描写が良い。