【文庫双六】食と書物に耽溺する「南條竹則」の一冊――野崎歓

レビュー

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食と書物に耽溺する「南條竹則」の一冊

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

【前回の文庫双六】ハマると抜け出せない息苦しいほどの愛憎劇――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/565850

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 多彩な小説家たちを輩出している日本ファンタジーノベル大賞だが、南條竹則はその中でも異色の存在である。1993年、『酒仙』で優秀賞を受賞。以後、作家として活躍するかたわら、翻訳家としても40冊を軽く超える作品を手掛けている。

 彼が訳すのはチェスタトンにブラックウッド、フラン・オブライエンといった一癖も二癖もある手ごわい面々。お化けや怪異の絡む、いわゆる幻想文学翻訳の泰斗といっていいだろう。

 もともと英文学者として大学で教えていたことを考えればそれも不思議ではない。しかし『酒仙』以後、彼は中国の文物への親炙(しんしゃ)を深め、中華圏にまつわる題材で次々に作品を発表するようになったのである。

 ぼくは過去に南條氏と一つだけ接点があった。大学1年の時のラテン語初級文法の授業である。大方の学生は、暗記事項の多さにひいひい言いながらついていくのが精一杯。そんななかで一人、堂々たる貫禄で圧倒的によくでき、先生からも別格扱いされていたのが「南條君」だったのである。

 その彼が俄然、中国文化に深入りする様子で、小説の扉に女優王祖賢(ジョイ・ウォン)に捧ぐ言葉を中国語で掲げているのを見て驚いたものだ。本書は南條氏の中国への情熱を、料理を題材に綴った文庫オリジナル随筆集だ。ラテン語から中国語まで、学問の道で彼の示した旺盛な咀嚼力は、食の分野においても存分に発揮されている。

 洛陽の街での、全品スープ尽くしの「水席」だの、上海万博での食べ歩きだの、とにかく並外れた健啖ぶりに呆れる。古今の文献で出会った料理を実際に食べてみたいという願いを実現する行動力がまたすごい。

 氏は、東京の下町をもこよなく愛する。表題の「泥鰌地獄」は生きた泥鰌と豆腐を一緒に煮るとあら不思議、泥鰌が姿を消してしまうという幻の料理。南千住のもつ焼き屋から始まる興味津々の一編だ。食と書物に悠然と耽溺する著者の生き方はそれ自体、一個のファンタジーといいたくなる。

新潮社 週刊新潮
2019年4月25日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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