「She is」編集長・野村由芽が、全女性必読の切実な本音をすくった3冊を紹介

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  • 美容は自尊心の筋トレ
  • どうせカラダが目当てでしょ
  • お砂糖とスパイスと爆発的な何か

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なくならない声

[レビュアー] 野村由芽(「She is」編集長)

 消えてしまった思いや発されなかった言葉、なくなってしまったものはどこにいくのだろう? そう、子どもの頃から思っている。学生のとき、授業中に後ろの座席から前を眺めながら、同級生の頭たちからそれぞれの思いがふきだしでているのが見えた。海水の量と、これまでに生きた人の涙の量は、どちらが多いのだろうか。

 おそらく今年中に、結婚というものをすることになって、苗字が変わること、戸籍上では野村由芽という名前ではなくなることについて考えをめぐらせる時間が増えた。相手となる人が、旧家の生まれであると前から聞いていたこともあり、苗字が変わることにはなるだろう、と想像のうちでは認識していたものの、いざ結婚ということになって、腹落ちしなくて戸惑った。その戸惑いにはさまざまなことが含まれるのだけれど、ひとつの大きな理由は、冒頭でこぼした違和感、「これまでの苗字だったときのあまたの人格は、どこにいくのだろう?」という思いが強いからなのだった。

 だからなのか、身近な人にわたしはよくインタビューをする。多くの人はインタビューをされることは少なく、たとえば父と母の初デートの場所も知らなかったりする。わたしも知らなかったので、母に聞いたら「……えっ!?(笑) 映画館だったと思う。新宿の。『インディ・ジョーンズ』だったかな。自分は観ないジャンルだったから、こういうものを観るんだーって思った。記憶のなかではそう」だそう。ほかのだれにも知られていなくても、そこにはたしかに声がある。声のかたちや大きさはまちまちだけれど、個人の人生という物語があるかぎり、その物語を紡ぐ声が存在する。

 長田杏奈さんの『美容は自尊心の筋トレ』、王谷晶さんの『どうせカラダが目当てでしょ』、北村紗衣さんの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の三冊は、自分にも噓をついてしまうような場面が減らない日々のなかで、どれも切実な本音の声で、女性のからだや心を、ほかのだれでもない自分のものに取り返せますように、という三人の願いが活字になっている。

 まず『美容は自尊心の筋トレ』。美容というと、「絶対的な美」に脅かされて萎縮してしまう経験をもった人が少なくないと思うのだけれど、「自分を大切にすることを習慣化し、凝り固まって狭くなった美意識をストレッチする『セルフケア』の話がしたい」と著者は言い切っている。

「自尊心の筋トレ十訓」という十箇条を掲げ、いつのまにかかかっていた「こうあるべき」の呪いをほぐす。まわりから自分の価値を判断されることの多い性別で生きてきた女性たちが、自分を救えますように─。自分を救える「わたし」が増えることで、そのわたしが手をとりあう連帯の輪が、いままさに広がりつつある。

『どうせカラダが目当てでしょ』は、著者が常々思っていたという、「何かの目的のためではなく、ただ自分の肉体を見たり触ったり考えたりしたい」という願いのもと、「乳」といういわくつきのパーツからからはじまり、髪、腹、尻、目、毛、腸、アソコ……と、個人の肉体がいかに他者の目によって意味づけされ、評価されているのかをあらわにする。

 わたしたちのからだに他者が貼りつけたラベルは、棘のようにじわじわ痛む。著者は、その棘をすぱすぱ抜いては、抜き去った棘をブラックホールの果てまでぶんぶん飛ばすような豪速球で放り投げてくれる。『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』は、あらゆる作品を「フェミニズム批評」の視点で捉えていく批評集。「私たちはフツーに生きているだけでいろいろな偏見を身につけてしまって、檻に入ったような状態になっています」とあとがきにあるように、日々にあたりまえに浸透している男性中心的なものの見方から脱却するための実践書だ。

 フェミニズムは、むずかしい「思想」ではなく、性別を理由に個人の行動が制限されないこと、個人は自由でいるべきだと教えてくれる。わたしたちは、自分が生きやすくなるための「ものさし」をそれぞれもてばいいのだと思う。そして、世界をときほぐしまくればいい。そしてそのときに大事なのは、他の人のものさしをへし折らないこと。まさにたとえばわたしはお砂糖、あなたはスパイスだとして、そうやって、爆発的ななにか─息のしやすい世界を化学反応で生みだすための、審美眼を磨く方法がここにある。

 王谷さんは、本書のなかで、「ちなみに私は喋る声は小さいがTwitterのフォロワーが万超えしたりしてるので、たまに『(ネット上の)声がでかい』と言われたりする」と書いている。だけど、王谷さんが、「ブス」などという言葉の矢を投げられながらも、からだを自分のものに取り戻すため格闘してきたように─長田さんが他者の声を聞くライターという仕事と並行して、「美容は自尊心の筋トレ」という自分だけの言葉を生みだしたように─北村さんが、イギリスの古い童謡「女の子って何でできてるの? お砂糖とスパイスとあらゆる素敵なもので」という一節から、「私たちは別にナイスなものではできていないし、ナイスになる必要なんてないんだ」と、わたしたちのマーブルな人間らしさを肯定したように─どんな声も、はじめはどれもたったひとりのちいさな叫びから生まれたものなのだと思う。

 昨晩、久々に母とふたりで枕を並べて眠った。電気を消した暗い部屋で、ぽつぽつとお互いの話がはじまり、母からすきな本の話をきいた。「仕事帰りに、サーティワンのアイスクリームを食べるのがささやかな楽しみなんだけど、前に出ていくのが苦手だから、いつもいちばん最後に並んで、今日は何味にしようかな? と考えて、注文して、アイスクリームをそっとなめる人を描いた小説があってね、それがすきなの。それはたぶん、シンパシーを覚えるからだと思う」。母は家族のなかでも、声が大きくない人だ。隣にいても、どこか遠くに行っているなと感じることがある。だけどその大きくなく思えた声は、わたしの知らないところで光り、豊かに響いているんであった。

 わたしたちのほんとうの姿は、それを形容する声は、どこにあるのだろうか。それはきっと、取り戻す必要があるのだと思う。母とのその夜の語りは、自分のなかに秘めてきたことを、夜の海に放るようにぽつぽつ交換したような時間から生まれた。長田さん、王谷さん、北村さんの声が、まずは自分との対話からはじめたように、だれにもわからないかもしれないけれど、わたしにはわかる、と思う声を発した瞬間、その声はほんとうになり、まずわたしの奥底に響いて、どこかのあなたの琴線はふるえる。そういうわたしたちの声は、表にでていようが、でていまいが、なにがあってもなくならないよ。

 わたしと母の苗字は、これから別のものになるけれど、わたしも母もずっとわたしたちでありつつけるんだなと、これまた苗字の異なる祖母の家で、思った。

河出書房新社 文藝
2019年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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