歴史的事実から聞くつぶやきと文章に染みわたる著者の呼吸

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暗い林を抜けて

『暗い林を抜けて』

著者
黒川, 創, 1961-
出版社
新潮社
ISBN
9784104444106
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

歴史的事実から聞くつぶやきと文章に染みわたる著者の呼吸

[レビュアー] 大竹昭子(作家)

 黒川創は近現代史に明るく、評伝や評論の著作も多い。その一方で本書のような小説も書き続けている。きっと歴史的事実から過去の人間のつぶやきを聞くのだろう。それを掬い上げるには小説を書くしかない。

 有馬章は通信社文化部の記者で五十代。癌を患い、残された時間を考えるなかで「『戦争』の輪郭線」という企画を通し執筆にとりかかる。ゾルゲ事件も取り上げるもののひとつだ。ゾルゲの行動は「スパイ行為」と見なされているが、あの時点に立って考えるなら一特派員としての職業意識に沿ったものだった。ならば、これは「権力犯罪」だったとはっきり言うべきではないか、と記事に目を通した若い女性記者が有馬に迫るシーンには、一つの事象を別の角度から眺めたときの心を明るくする作用がある。当たり前だが国家と個人では存立の根拠が異るのだ。ドイツから日本に来た反ナチスの女性チェンバロ奏者エタ・ハーリヒ=シュナイダーの長い旅と、ゾルゲとの束の間の関係を書いた個所も味わい深い。

 非常時には一つの決断が物事を大きく左右する。だが、左右したとわかるのは後で、その時は自分を囲む現実に反応することしかできない。いや、平時とて同じだろう。私たちはそれが後の人生にどんな影響をもたらすかわからないまま判断と選択を繰り返すしかないのだから。

 有馬には学生時代に綾瀬久美という女友達がいたが、結婚したのは春田ゆかりという同じ大学の女性で、ゆかりとの結婚は十一年で破綻した。久美のアパートでの「心が互いに流れ込みあう」ような性交の生々しさ、ゆかりとの結婚生活がゆっくりと崩壊していく痛ましさ、偶然にもゆかりと再会できたときの安堵感。有馬はそれらをため息をつくように振り返るが、それを読むこちらは不思議にも明るさや軽みや光に包まれていく。きっと著者自身が世界と触れ合うさまがそうなのだろう。その呼吸が文章全体に染みわたっている。

新潮社 週刊新潮
2020年4月9日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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