日中戦争中の和平工作を巡ってさまざまな思いが交差していく

レビュー

13
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ヘーゼルの密書

『ヘーゼルの密書』

著者
上田早夕里 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334913823
発売日
2021/01/20
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

日中戦争中の和平工作を巡ってさまざまな思いが交差していく

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 平和を望む思いはいつの世にも。

 上田早夕里『ヘーゼルの密書』は、日中戦争中に人知れず行われた和平工作を巡る冒険小説である。

 盧溝橋事件以降、中華民国と日本の間には一触即発の空気が流れていた。重慶に遷都した蒋介石の警戒心は強く、和平工作も頓挫してしまう。日本側には開戦を望んだ拡大派が存在し、意思統一もままならない。

 一九三九年、今井武夫陸軍大佐によって新たな作戦が開始された。和平交渉の協力者を蒋介石に近いところから探し出し、密書を届けようというのである。その人脈作りは「榛(はしばみ)ルート」と呼ばれた。榛とはヘーゼル、花言葉は和解と平和である。

 主人公の一人、倉地スミは、満洲国建国後の対日感情悪化が引き起こした暴動によって重傷を負ったが、「いま帰国したら、自分は他人を、当たり前のように憎む人間になってしまう」と感じ、中国に留まった女性だ。彼女のように戦争の暴力を憎む人々が榛ルート工作に協力するのである。だが倉地とは反対の立場をとる雨龍礼士(うりゅうれいじ)のように、「強い日本」という幻想を守るためには手段を選ばない人間もいるのだ。

 さまざま思いがちりばめられた群像劇である。残酷に命を奪われる者も多い。国家が目的をもって動き始めたときには、個人の幸福は踏みにじられ、一切顧みられない。その残酷さも冷徹な筆致で描かれるのだ。後半は密書を巡る攻防戦となり、叙述は速度を増す。裏切りのドラマや形勢逆転の展開に、読者は激しく感情を揺さぶられるだろう。諜報小説としても出色の作品である。

 力によって他人を押しのけることが平然と行われる現代の世情は、作中で描かれたものと地続きである。歴史の裏側には、平和を望んで必死の努力をした倉地スミのような人々が無数に存在したであろう。その思いが行間からありありと浮かび上がってくる。今もまた、ヘーゼルが実を結ぶことが待たれる時代なのだ。

新潮社 週刊新潮
2021年2月11日特大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加