“普通の大人”になれなかった男の、ひと夏の日常と非日常

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これはただの夏

『これはただの夏』

著者
燃え殻 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103510123
発売日
2021/07/29
価格
1,595円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

“普通の大人”になれなかった男の、ひと夏の日常と非日常

[レビュアー] 筧美和子(タレント/女優)

 人の作ったおにぎりを食べる、好きな芸能人の話をする、サザンオールスターズ、おかえりの声、モスバーガーは最高。

 たわいもなく、なにげないこと、それが人生の本当の味わいだったりする―。

 この本は、ある男のひと夏を描いている。

 知人の結婚式で出会った“反則”レベルの美女。同じマンションに住む小学生の少女との邂逅。唯一まともに話し合える存在だった、長年の仕事仲間に起きた異変。

 いったいどんなドラマティックな夏が始まるのだろうと、ページをめくっていった。だが、この本に綴られるのは、夏のほんの数日の出来事にすぎない。ちょっとした出会いと別れが描かれた、きっとありふれた一人の男の日常である。

 この本には一話ずつ物語の区切りがあり、一話読み終わるごとに、その先を読むかどうかも「ご自由にどうぞ」とこちらに委ねられているような気がした。そんな点と点で紡がれていく時間をじっくりと読み進めた。

 主人公はテレビの制作会社で美術の仕事をする40代の男。親の言う、“普通”に縛られることを嫌い、独身で仕事中心の生活を長年過ごしてきたようだ。そんな男に、それまで自分の生活にはなかった存在がふっと現れ、不思議な関係のひとときを味わっていく。

 ひょんなことから少女を一時的にあずかることになった男は、“反則”な美女とともに、泡沫の疑似家族を築いていく。一緒に食事をして、たわいもない会話をする。同じ部屋で寝る。休日にはプールに遊びにも行くし、仕事仲間のお見舞いにも行く。ありふれた家族の風景だが、実際は、彼らは赤の他人同士だ。

 一緒にいるのにいないような、どこか素っ気なくて、冷たいのか温かいのかよく分からない。そんな生温かい心地のよさに包まれながら読み進めた。いつか終わると分かっている日々を、だいじに過ごすのでもなく、違うところを向きながら背中を合わせているようだった。彼らは、逞しく一人で立っていた。

 彼らのやりとり一つ一つに、誰かとの生活の記憶が蘇る。ちくちくと心を突かれながらも、儚い生活の様子が愛おしくなった。彼らの別れが近づくにつれて、読んでいる私も、いつか終わりが来てしまうことに心の準備をしていた。

“普通”。それは望まなければ手にできないものなのかもしれない。独身の私はそんなことを思いながら、なんだかぽかぽかしていた。

新潮社 週刊新潮
2021年8月5日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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