『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』
- 出版社
- 河出書房新社
- ジャンル
- 文学/日本文学、小説・物語
- ISBN
- 9784309029832
- 発売日
- 2021/09/28
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
スキャンダラスな虚構の伝記 その皮を剥いでいく愉しみ
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』には、主人公が影響を受けた作家として、ヘミングウェイと同時代のデレク・ハートフィールドが挙げられている。名前すら聞いたこともないのを恥じ、慌てて図書館で探した人間は私だけではなかったろう。
インターネットでなんでも検索できる現在、そのように読者を混乱させようとしたわけではあるまいが、本書の主人公、ジュリアン・バトラーもまた、架空のアメリカの小説家だ。
一九二五年生まれとのことだから、ヘミングウェイらロスト・ジェネレーションの次の世代になるが、前世代がモラルに対して冷笑的に構えていたとすれば、バトラーにとってはモラルなど初めから無きに等しい。
無視されるモラルとは白人のヘテロセクシュアルのそれであり、その破壊の仕方は、作中でも言及されるカポーティやゴア・ヴィダルに比べても圧倒的だ。数々のスキャンダラスなゴシップに包まれた絢爛豪華な私生活の真実がようやく明かされる――というのが本書の設定である。作家の伝記という点では、ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』に倣っており、小説内ですらその作家の存在が怪しいという点でもナボコフを踏まえている。タイトルロールの作家は、虚構の作品内においてすら虚構の存在なのだ。
中心としての空虚を何重にも包むこの物語は、タイトルにあるような真実を求めるためのものではなく、あくまで皮を一枚一枚剥いでいくことの愉しみのためにある。ナボコフの場合は、その過程で「虚構とは何か」「作者とは誰か」という抽象的な問いと対峙することになるが、本書は具体的な現実と接してもいる。中心的人物以外は、現実のアメリカ文学史を忠実に反映しているのだ。
虚実綯い交ぜとなった現代米文学のパラレルワールドは、今のわれわれの常識やモラルを揺るがす。スキャンダラスな虚構の伝記の捏造のねらいは、そこにこそあるのだろう。