私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説:彩瀬まる】

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パイナップルの彼方

『パイナップルの彼方』

著者
山本 文緒 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041121542
発売日
2022/01/21
価格
748円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説:彩瀬まる】

[レビュアー] 彩瀬まる(作家)

■角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

■山本文緒『パイナップルの彼方』

私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説...
私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説…

■山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説

■私が「私」であるかぎり

解説
彩瀬 まる(作家)  

 苦い、と強く思ったのをよく覚えている。
 山本文緒さんの作品を、初めて読んだとき、私は高校生だった。直木賞受賞作『プラナリア』の表題作を読み、面白さや奥深さを感じるよりも先にその強烈な苦味に驚き、私はまるで初めてさんまのわたを食べた子供のように飛びのいて本を閉じた。そのくらい強烈な読書体験だった。
 二十歳を少し過ぎた頃にちょっと臆しながら『恋愛中毒』を手に取り、こちらは溺れるように、のめり込んで読んだ。あまりの面白さにずっと胸がどきどきしていて、怖くて、楽しくて──そして、大胆で巧みな恋の物語を読み終えたときの印象はやはり、苦い、だった。甘いもの、美しいもの、清らかなもの、正しいもの。世に流通する多くの物語は、そんなわかりやすく人を愉快にするものを描こうとするのに。そういう物語はこちらも安心して読んでいられるのに。どうしてか、この方の物語はとてもとても苦い──というか、その苦さが大切なものとして書かれている気がする。楽しくて苦い。苦いから、少し怖い。山本文緒さんの作品の苦さの仕組みも、奥深さもわからないまま、長いあいだ漠然とそう思っていた。

『パイナップルの彼方』はまだ「女はお嫁に行って子供を産むのが当たり前だ」と考えられていた平成初期の都心を舞台に、そんな社会が要請する型に自身をはめ込めない女性たちが、苦しく試行錯誤しながら自分らしさを保って生きられる場所を探す物語だ。
 主人公の深文は父親のコネで入った信用金庫で働いている。多少の癖はあっても扱いやすい女性の先輩のもと、雑用を中心とした単調で落ち着いた仕事をこなし、わずらわしい実家を離れて期限つきの一人暮らしを謳歌している。
 期限つき、というのは、結局のところ深文の自由な暮らしが、父親に裁量を握られた狭い囲いの中で成り立っているからだ。

 お嫁に行ったら、もう二度とひとり暮らしなんかできないんだ。一生に一度ぐらい、ひとりで暮らしてみたい。結婚したら、必ずオトーサンとオカーサンのそばに住むからと、私は毎晩、両親に頭を下げた。(21ページ)

 どうしてこんな悲愴な懇願をしなければ一人暮らしできないんだと、今の若い人は不思議に思うかもしれない。でも九十年代当時、自分でお金を稼いで一人暮らしをし、生活を自由にデザインする成人女性のイメージはまだ乏しかった。「結婚して、夫と同居するために実家を出る」のが一般的な(そして要領のいい)道筋だと見なされていたし、そもそも「ずっと一人でも生きていける収入や地位を得られる女性」が圧倒的に少なかった。だから深文自身この自由が期限つきであると、納得せずとも、頭では理解している。
 生きづらさを感じているのは深文だけではない。短大時代の友人である月子は恋愛にも仕事にも失敗した挙句、ハワイへ逃げた(そんな月子の逃げるという選択に、深文は苛立ちを感じている)。もう一人の友人なつ美は、「おとなしくて、もの分かりがよくて、(略)童話に出てくるヤギのおじさん」のような、いかにも御しやすそうな男性を戦略的に捕まえて結婚した(やっと親の監視下を抜け出せる年齢になったのに、何故そこまで他人に従属したいのか。なつ美にも、深文はまるで共感できない)。
 それぞれの生存戦略をもって抑圧的な現実を泳ぎ抜こうとする三人は、しかしそれぞれの理由で打ちのめされる。現実は甘くない──というより、山本文緒さんの公正で緻密な筆は、現実を甘くなんて、ぜったいに書かない。
 この小説でとても山本文緒さんらしいと感じたのは、深文が抱えた「逃げたい」という欲望と、「逃げない」という意志の闘争だ。仕事に行き詰った深文は、同時期に恋人から求婚される。タイミングよく、と多くの読者は思っただろう。結婚すれば、閉塞的な実家に戻らないで済むし、首尾よく居心地の悪くなった会社を辞められる。いいことばかりだ。しかし深文はそれを喜べない。

 こんな私でも、まだ社会に未練があるのか。まだ逃げずに立ち向かっていこうという、ぎりぎりの意地が残っているのか。
 八方塞がりだった。
 逃げたい私と、逃げない私が、一枚の壁を両方からぐいぐいと押しているようだった。(188ページ)

「逃げたい」と「逃げない」の相克は、実は山本文緒さんの作品で繰り返し描かれる。「逃げる」ことは眩しく蠱惑的に描かれ、その概念を体現するような人物も登場する。本作では、岡崎という魅力的だが女癖が悪く、職場の人間関係を徹底的に破壊しておいてけろりとしている食えない男がそうだ。自由で飽きやすく、他人を傷つけることをなんとも思わない恐ろしい人たち。代表作の一つ『恋愛中毒』の創路功二郎、近著では『なぎさ』のモリもその系譜だろう。
 彼らに誘惑されながらも、「逃げたくない」と多くの登場人物たちが奥歯を食いしばる。現実との、血のにじむような戦いを始める。なぜか。自分と他者を愛したまま、幸福になりたいからだ。誰かを踏みつけにする以外の方法で、生きていきたいと切実に願っているからだ。
 厳しく精緻に描かれる現実と、魅力的でしたたかな誘惑者。
 これだけでも十分すぎるくらい大きなハードルなのに、山本文緒さんの作品にはさらにもう一つ、登場人物たちが幸福を目指す道筋に、強固なハードルが設けられているように感じる。そしてそのハードルこそが、まだ高校生を竦ませた、苦味の正体ではないか。
『恋愛中毒』(角川文庫)の主人公、水無月の独白を引用したい。

 もしも私が「私」でなかったら、こんなめにあわずに済んだのかもしれないと。生きているのがつらかった。けれど楽になれる手段がどうしても思いつかなかった。(357ページ)

 山本文緒さんは自分が描く人々に明確な、当人がたとえそれに苦しんでたとしても、なかなか意志だけでは変えることのできない「性分」を設定する。
 深文の自由へのこだわりもその一つだろう。月子の甘い夢に飛びつく癖も、なつ美の追い詰められていく性質も、完璧であろうとすることをやめられないサユリさんも、自分の望みを言葉で伝えることができない天堂も──そして自分の考え方はどこか他の人間と違うようだと自覚しながら女遊びを続ける岡崎も。自分の性分から逸れることができず、読み手からすれば「どうして、いつの間にこんなことに」という抜き差しならない状況へと流されていく。彼女ら彼らが善人であるか悪人であるか、強者であるか弱者であるかはあまり関係がない。ただ、性分という本人からすれば当然の、他者からすれば「あの人は変わっている」と感じる、それぞれに固有の流れやリズム、人生のとらえ方がある。
 当たり前だ、と思うだろうか? でも、人はとても簡単にそれを忘れる。胸襟を開けば分かり合えるとか、相手の気持ちになってとか、胡乱なことを平気で口にする。
 山本文緒さんの小説の中で、人々は明確に、性分によって隔絶されている。一人一人がそれぞれの人生、それぞれの衝動から逃れられず、性分が招いた災厄で時に深刻な傷を負う。会話は嚙み合わず、心はなかなか通じない。高校生の私がおののいた苦味。それは現実を生きる私たちが常に目を背けていたい真実──人は圧倒的に孤独である、ということではないか。
 愛すること、他者と連帯して生きることの喜びを模索しながら、どこまでも隔絶して生きている人々の在り様から目を逸らさない。誰一人として同じ心の形をしていない、安易に慰め合うことすらままならないでこぼこな人々を連れて、彼女ら彼らが深く呼吸して生きられる場所を共に探す。山本文緒さんが魂をこめて読者に見せてくれた戦いは、そういうものだったのではないか。
 性分を乗り越えて意思を伝えあうには、適切なタイミングと、配慮と、勇気が必要だ。だからこそ、誰かと心が通うことは奇跡なのだ。人間に課されたいくつものハードルを越えた先の美しい奇跡を、なんども読ませて頂いた。私もでこぼこの心を抱えたまま、気がつけば山本文緒さんが描く孤独な人々の列に加わっていた。本当にたくさんの読者がそうだったはずだ。
 私が「私」である限り、私たちは孤独だ。私たちはすれ違う。現実は厳しく、甘いだけの空虚な幻が何度でも人生を惑わせる。
 だけど私たちは大丈夫なんだ。その凍てつく戦いの場には、山本文緒さんの小説がすでにあるんだ。
 なんて心強く、温かい光だろう。

 山本文緒さん、この世にたくさんの光を、ありがとうございました。

■作品紹介

私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説...
私が「私」であるかぎり――山本文緒『パイナップルの彼方』文庫巻末解説【解説…

パイナップルの彼方
著者 山本 文緒
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2022年01月21日

山本文緒さんこの世にたくさんの光を、ありがとうございました(彩瀬まる)
父のコネで都会の信用金庫の人事部に勤める深文は、安定した仕事の中で同性の先輩ともうまく付き合い、恋人との関係も良好で満足していた。居心地いい生活、それはずっと続くと思っていたのに。ある日、1人の女性新人社員が配属されたことで、周囲のバランスがゆっくり崩されていく。そして起きた、ある小さな出来事を気掛けに世界はすっかり瓦解の一途をたどる……。
すべてがダメになったと思ったら、何もかも捨てて南の島へ飛んでパイナップル工場で働けばいい。そんな決して実現しない妄想が「私」を救ってくれることもある。中毒性があり! 山本文緒の筆致が冴えわたる、誰もが共感できる「私」の物語。(解説:彩瀬まる)
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322109000579/
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KADOKAWA カドブン
2022年02月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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