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「不倫」にまつわる切なく、蠱惑的な忘れがたき「逸脱」の物語
[レビュアー] 北村浩子(フリーアナウンサー・ライター)
若い女性が主人公の四編を収録した佐々木愛『プルースト効果の実験と結果』は、あるロングセラーのお菓子をキーアイテムに用いた表題作もいいけれど、二〇一六年にオール讀物新人賞を受賞した「ひどい句点」が特に忘れがたい。
大学三年生の章子は新幹線の中で新聞社勤務の小玉さんと知り合う。小玉さんの婚約者の出身地は章子のふるさとで、その地方の方言や就活の話をきっかけに、章子は彼に憧れと信頼の混じった気持ちを抱く。
自分の言ったことに対して彼が笑ってくれると、嬉しいだけでなく満たされる。小玉さんの不思議な笑い方は章子にとって必要不可欠なものになり、彼の存在自体が「そう」なるのに時間はかからなかった。二人は関係を持つ。小玉さんはすでに結婚していた。
章子はある瞬間、自分たちが「おかしくなった」と感じる。独身同士であればその瞬間はきっと別の言葉で表現されるだろう。「おかしい」のは、不倫だからだ。倫理にもとる行為はいくらでもあるのに、日本では「結婚を逸脱」することだけを不倫と言う。不思議で奇妙だと思う。
不倫を扱った小説は古今東西豊富にあるが、筆者が一番に思い出すのはチェーホフの「犬を連れた奥さん」(『かわいい女・犬を連れた奥さん』小笠原豊樹訳、新潮文庫収録)だ。若くして結婚したグーロフと既婚者のアンナは、海沿いの町で出会い惹かれ合う。恋には慣れていたグーロフだったが、地元に戻ったあとも彼女のことが忘れられず、アンナの家を訪ねてしまう。「どうしたら?」と繰り返すグーロフ。どこへも行けない二人の姿を置いて物語は閉じられる。不倫は行為者を、その行為によって途方に暮れさせるものなのだ。
一九六三年の夏、樹木限界線を越えた山頂で野営仕事を共にすることになった二人の男が肉体と魂を求めあう。不倫と同性愛という二つの禁忌を描いた『ブロークバック・マウンテン』(アニー・プルー著・米塚真治訳、集英社文庫)は、本編八十二ページという短さの中に選び抜かれた言葉がぎっしりと詰まっている。