彼女たちの覚悟 千加野あい『どうしようもなくさみしい夜に』

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どうしようもなくさみしい夜に

『どうしようもなくさみしい夜に』

著者
千加野 あい [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103550617
発売日
2023/05/17
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

彼女たちの覚悟

[レビュアー] 紗倉まな(AV女優・作家)

紗倉まな・評「彼女たちの覚悟」

 私たちは他人のどこまでを受け入れることができるのだろうか。個性や性格といった代え難いものは許せても、自由に選択をし続けてきた結果の人生や職業だと、どうだろう。仮に、大切なひとの職業に、自分が思う「清潔さ」がなかった場合、そのひとを拒否する理由は生まれるのだろうか。『どうしようもなくさみしい夜に』の五篇が織りなす物語の根底には、人としての清潔さとは何かという問いが常に孕まれている。

「今はまだ言えない」では、デリヘル嬢の母親を持つ主人公の少年・夏希が登場する。母親は体を売ること以外の仕事が続かず、社会にうまく適応できず、最終手段として自身の臓器を売る覚悟まで胸に秘めている。クラスメイトに母親の職業を暴露され、隠しておきたかった家庭の事情が衆目に晒され、夏希は絶望の淵に立たされる。母親のさりげない所作からデリヘル嬢の痕跡をつまみ取り、「汚いもの」として即座に脳内で変換してしまう。世の中に蔓延っているステレオタイプな偏見ではあるものの、夏希の母親に対する嫌悪感は心の中でどばどばと溢れ出る。それでも母親を見下し、拒絶するだけで終わらせない。風俗嬢だった過去を持つ元教師との交流によって、即物的な行為や快楽だけではない母親の職業とその人生を捉え直すのだ。人を受け入れ続けてきた母親の特殊な人生を、息子もまた引き受ける。夏希の切実で生々しい悲鳴や、母親を拒否する心情はとても強く胸を締め付けるものの、まるでガラス細工にでも触れるような夏希の慎重な母への手の伸ばし方に、そうやってたしかに触れようとする彼のあたたかさに救われる。

「雪解け」では、友達との旅行資金を工面するために風俗嬢になった結衣が、初恋の中学の同級生に似ているという理由で、客である後藤に指名し続けられる。仕事に対してのやり甲斐や誇りを感じず、しかし引き際も見つけられない。風俗嬢をした経験は結衣にとって十字架を背負わされたように重く、日のあたる場所に身を置けばいつか過去を晒されてしまう恐怖に駆られる。それで、致し方なく夜の世界に浸るのだ。孤独。「ふつう」という枠組みからこぼれ、「ふつう」の人たちから間接的に拒絶されてきた結衣は、客の特殊な性癖に対しても「ふつう」であることを求めない。それもまた、受け入れるという役割を全うするからだ。つい客が抱えた闇の深さまで、一緒に潜り込もうとする。それは結衣のなかで下げてきた自身への価値基準が、相手を測るときの物差しにもなっているからなのだろうか。結衣の後藤への眼差しにあるのは、同情を含めた優しさなのか、それとも風俗嬢を消費することでしか自らを慰撫できないことへの蔑みなのか。どちらにしても、人を受け入れる過程には、相反するこの二つの感情は含まれてしまうのかもしれない。

 小学四年生の時に、夏希の母親の職業を教室で暴露した翔の物語、「落ちないボール」。夏希の母親の客であった父と、母との喧嘩を見て生じた翔の怒りの矛先は、夏希へと向けられる。しかし成人した翔は、年上の子持ちのデリヘル嬢である風香と付き合う。翔は憎き職業で生計を立てる風香を咎め、理解を示さない。なにしろ風俗嬢は「性道具」でしかなく、「ちゃんとしていない」上に「胸を張れる仕事でもない」のだし、「自分を堕とす」上に「安売りする」とまで、ストレートに言い募る始末。

 一方、「ひかり」では視点が風香に切り変わる。かつて風俗嬢だった先生との接触によって夜の世界に足を踏み入れた風香は、悪質な太客からのストーカー被害を受けている。職業上、世間からの社会的信用はなく、役所も警察もまともに取り合ってくれない。客を心から抱擁する風香の魅力が、誰にも頼ることのできない残忍な形で跳ね返ってくるなんて。それでも、かりそめの居心地の良さを感じて、風香もやはり夜の仕事から抜け出せない一人なのだ。

「折り鶴を開くとき」では、風俗店の店長になった夏希と、YouTuberでもある人気風俗嬢のリコが、夜に海へとドライブに行く。明るく人との接し方が上手なリコの存在。「ふつう」である人が、性風俗業に従事することはとりわけ異常だという認識がある。真っ当な倫理観と価値観を持つこの二人は、そうした「ふつう」を良くも悪くも持っていることで、真の意味で社会とも夜の世界とも分かち合うことができない。

 まるで希望など感じてはいけないと言われているようで、それでも物語は重く沈みながらも淡々と、ときにユーモラスで軽快な会話を挟みながら進んでいく。濃密な描写によって、今にも途切れてしまいそうな彼女たちの細切れになる息遣いが、耳元に近付いてくるのがわかって胸を打つ。働く理由も辞める理由も職業をかたどる言葉も、単純明快な答えが既に決まっている小さな世界。きっと、通りすがりの誰かに、人としての清潔さも容易く剥がされてしまうのだろう、そういう世界だ。受けてきた侮辱によって震えていた彼女たちの体に、詰め込まれてきたもの。それは「自分が生きることを受け入れる」という、「ふつう」ではない相当な覚悟なのだ。

新潮社 波
2023年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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