『サーカスの子』
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<書評>『サーカスの子』稲泉連 著
[レビュアー] 与那原恵(ノンフィクション作家)
◆母への「アンサーソング」
記憶というものは、不思議な生命力を持っている。楽しかったことだけではなく、悲しいことや辛(つら)い出来事、匂いや音も鮮やかに、手放せない記憶が人それぞれにある。
いまから四十年前、シングルマザーが四歳の息子を連れて、キグレサーカスの炊事係として働きだした。母子はともにノンフィクション作家となる久田恵と著者だが、当時の久田は先行きも見えないなか、目にした写真集をきっかけにサーカスの世界に飛び込んだ。
「れんれん」と呼ばれた著者は「華やかな芸と人々の色濃い生活が同居する世界、いわば夢と現(うつつ)が混ざり合ったあわいのある場所」で「サーカスの子」として一年足らずを過ごすことになった。空き地に建てられたサーカスの大天幕の裾をまくれば華やかな芸が繰り広げられる。その周囲では芸人の子どもたちが走り回り、大人たちは誰の子もかまわず、かわいがり、叱ってもくれた「家族」のような共同体だった。
サーカスは二カ月に一度のペースで次の興行地へ移動する。旅と祭りが合わさったような日々は稲泉の胸に刻まれた。
久田はのちに取材をして『サーカス村裏通り』(一九八六年)を刊行。だがキグレサーカスは二〇一〇年に廃業し、稲泉の「故郷」は失われ、いつしか「郷愁」も感じるようになった。歳月が流れ、サーカスにいたときの年齢の子を持つ彼は、芸人たちを訪ね歩き、サーカスの世界に生きた理由、そこを去ったあとの人生を聞いていった。
どの人も「れんれん」を懐かしそうに語るが、筆致はそれに寄りかかることなく、ノンフィクションの書き手としての視線が貫かれる。多彩な背景を持つ芸人たちは、事故の悲劇も語り、厳しい現実に直面しながら生きた。やがて稲泉の記憶は少しずつ変質していく。
サーカスの観客と同様に、夢の世界が消えたあとには日常があり、その後の人生が続く。まれな体験を与えてくれた母へのアンサーソングとしても胸を打たれた。
(講談社・2090円)
1979年生まれ。ノンフィクション作家。『「本をつくる」という仕事』など。
◆もう一冊
『ぼくもいくさに征(ゆ)くのだけれど 竹内浩三の詩と死』稲泉連著(中公文庫)