北極狩猟漂泊行三部作『裸の大地 第二部 犬橇事始(いぬぞりことはじめ)』「耐えるだけじゃなく、面白みがあるからやめられない」

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裸の大地 第二部 犬橇事始

『裸の大地 第二部 犬橇事始』

著者
角幡 唯介 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784087817317
発売日
2023/07/05
価格
2,530円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

北極狩猟漂泊行三部作『裸の大地 第二部 犬橇事始(いぬぞりことはじめ)』「耐えるだけじゃなく、面白みがあるからやめられない」

[文] 砂田明子(編集者・ライター)

耐えるだけじゃなく、面白みがあるからやめられない

角幡唯介
角幡唯介

〈狩猟者〉の目線で土地をとらえ、地図にはのっていない〈いい土地〉を見つけて狩りをし、極北の〈裸の大地〉を自由に動きまわるには、犬の力が必要だ―― 。これまで様々な探検をするも、〈犬橇(いぬぞり)にだけは手を出さない〉と決めていたという角幡唯介さん。しかし前作(『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』)で経験した海豹(あざらし)狩りの失敗によって翻意し、本作で犬橇を始めます。
犬選び、犬の訓練、犬橇作り、時速20キロの犬橇での疾走。2年かけて犬橇をものにしたと思った矢先に、北の大地にまでコロナが押し寄せ、旅を続けるべきか苦悩します。そして訪れる犬との別れ。〈犬たちを一瞬たりともかわいいと思ったことはなかった〉と綴る格闘の日々は、〈自力〉を追求してきた角幡さんの旅の在り方のみならず、生き方をも変えていきます。刊行にあたり、お話を伺いました。

 
 

犬を怒鳴って殴る、
ストレスフルな日々

―― 本作は、北極狩猟漂泊行三部作の第二部になります。第一部の刊行インタビューで角幡さんは〈よく知っている土地を増やし、自由に移動できる土地を広げ、うまく北極を旅できるようになりたい〉と話していらっしゃいました。そういう旅のためには「犬橇」が必要だということで、最終的に12頭となった犬との“チーム角幡”が出来上がるまでの冒険が綴られます。

 三部作のなかで、読んでいていちばん面白いところかもしれません。冒険の本って、本番の旅よりも、プレ段階のほうが面白かったりするんです。試行錯誤して、失敗したり、うまくいったり、発見があったりという紆余曲折がふんだんにあるから。植村直己さんの本でも、犬橇を覚えるまでの村での生活を綴った『極北に駆ける』は人気が高いですよね。

 
 

―― 読んでいて面白いぶん、角幡さんにとっては過酷ですよね。犬たちを怒鳴り、殴りと、怒り狂っていらっしゃいます。

 とくに最初の頃は、毎日はらわたが煮えくりかえってました。犬は思った通りに動いてくれないわけですよ。右へ行けと指示しても左に向いちゃって、滑って転んで痛い目に遭う、みたいなことの繰り返し。イライラするから怒鳴るし、手も出るんだけど、そうすると、さらに疲れるんです。氷点下30度の冷気を肺のなかに取り込むことによる消耗ですね。家に帰るとぐったり疲れて、怒鳴ってしまったなあと反省して、自己嫌悪に陥るんだけど、翌日、また怒鳴ってしまう。犬橇を始めて3年目くらいまでそんな感じでしたね。
 だから挫ける人が多いんです。犬橇をやろうとしたけどやめた、という有名な極地探検家の話を聞いたことがあります。冒険家って一般に、目的に向かってまっしぐらに、己の肉体の限りを尽くして進む人たち。犬橇は真逆の世界で、自分がどんなに頑張っても思い通りにならない部分があるから、ストレスなんです。

 
 

―― でも、やめようとは思われなかった。

 それはやっぱり、耐えるだけじゃなくて、面白みがあるからですね。じわじわとだけど、犬との関係性が良くなっていくんです。犬が僕の言ってることを理解するようになっていく。僕も犬たちの個性がわかってくる。犬同士の関係性も大事で、ボスが決まり、ある程度走り込んでいくと、自分たちは一つの群れなんだ、ということを理解するようになっていくんですね。そうなってくると、やめられなくなります。

角幡唯介
角幡唯介

―― 〈犬=かわいい〉は普遍の真理ではあっても、犬橇においてそれは通用しないと書かれています。犬橇における犬は、私たちが知る飼い犬とは全く別のもので、犬橇は犬の処分とセットになっている現実もあるし、犬同士のボス争いや喧嘩の激しさにも驚きました。

 犬の喧嘩は放っておくと殺し合いに発展することもあります。実際に、僕の犬のウヤミリックが、預かってもらっている人の犬を噛み殺してしまったことがありました。イヌイットは、こうした危険な犬とか、役に立たない犬を間引くんです。僕にとっては大事な犬だったので、しませんでしたが。

―― ウヤミリックは前作からの相棒ですよね。そのほか、初代先導犬となるウンマ、逃亡癖があるのに角幡さんが魅了されてやまないウヤガン……。彼らは殺し合いもするし、助け合いもする。この本の主役である犬たちの強い個性に惹きつけられます。

 自分が訓練した犬との間には物語が生まれるんです。犬橇の旅には、犬が突然暴走して、置き去りにされるなどのリスクはつきものだけど、それでもまた奴らと一緒に旅をしたいなとか、来年はもっと遠くに行けるかなとか、そういう楽しみができるんですよね。で、3年目くらいからは、僕がコントロールするだけでなく、犬の動きに任せちゃうことができるようになってきました。

近代的自我を消す
旅のほうが楽しい

―― 冒険という行為は自力的であればあるほど価値が高いと考えていた角幡さんが、犬橇旅行は「自力」なのか「他力」なのかを考えるくだりが印象的です。犬橇は他力的に見えるが、実はそうではなくて9割は〈他力が自力に転換する〉と。しかし残りの1割は犬自身の判断になると。ここが、今仰った、犬に“任せる”部分でしょうか? 

 そうですね。今まで僕は全部自分の力でやりたかったんです。今もその気持ちはあるんですが、犬橇や狩りをすると、自分の力だけではどうしたってうまくいかない。要するに、自分に従わせようとするからストレスになるわけですよ。だったら犬たちは自分の思った通りには動かないことを受け入れて、その動きに自分が巻き込まれていくほうがいい。本では〈組み込まれていく〉という言葉を使いましたが、狩りも同じで、海豹の出現ポイントに合わせて旅を組み立てていく。目的の場所に直線的に進んでいくのではなく、周囲の土地や自然に組み込まれていくことで、僕の旅はより自由になっていくことに気づいたんです。

―― 自然に組み込まれていく旅は、角幡さんが求めてきた人間社会の外側に出る「脱システム」につながりますか? 

 究極の脱システムですね。つまり自分の行きたい場所よりも、土地の条件を優先するわけですが、これが最初はなかなか難しい。自分の意思を優先することに慣れているからですね。でも、いわば近代的自我を消して、土地の力を利用したほうが、犬橇のルートもうまく見つけられるし、狩りもうまくいく。結果的に犬も疲れず楽しそうだし、僕も楽しい。楽しいことはいいことだ。犬橇でも、目的達成を第一とする近代的な行動原理でもって、乱氷帯をゴリゴリ突き進むこともできるんですよ。でもそういう旅は、犬も僕も疲れるし、達成感はあっても、喜びはないんです。

―― でも近代の探検や冒険って一般に、ゴリゴリ進むものでしたよね? 

 はい。僕もそうやってきたんだけど、どこかで自分の行動に違和感を覚えていたんです。それはやっぱり、自分の行動が周囲の自然や土地とうまく噛み合っていないことによる違和感だった。土地と調和し、関係を築くことができるようになってくると違和感が消えて、自由を感じるようになったんです。近代的な思考回路や行動原理から解き放たれているという意味で、こうした旅は究極の脱システムだと思います。そしてこの脱システムを支えているのが、土地への信頼であり、犬への信頼です。

犬の天分、人間の天分

―― 犬橇を始めたことで行動範囲が広がり、第一部で失敗した海豹狩りにも再度挑みます。何度逃げられても粘り強く対峙していると、ふいにチャンスが訪れたりもする。狩猟者として研ぎ澄まされていく感覚はありますか? 

 それはありますね。狩りを本格的に始めて4、5年なので、まだ初心者なんですが、海豹狩りは50回以上やっているので、相手の心理状態がわかるようになってきました。これ以上近づくと逃げるなとか、今不安になってるぞとか。
 不自然な存在になると獲物に気づかれるんです。この前、鹿を追いかけたときは、鹿のいそうな場所に、鹿になり切った気持ちで、できるだけ殺気を出さず、鹿の歩き方をイメージしながら近づいていきました。言語化するのは難しいんですが、循環している大気のなかに自分を溶け込ませるような感じですかね。といっても人間だから、森のなかではおかしな存在感を醸し出しているとは思うんだけど。狩猟民族だった頃の人間の心性をどうやって獲得するかは、今の僕にとって、重要なテーマです。

―― 犬との関係も3年間でどんどん深まっていきます。激走する犬に対して、〈走ることはまぎれもなく犬の天分である〉と。これは犬橇を始めて感じたことでしょうか? 

 もちろんそうですね。犬を飼ったことはあったけど、あんなに走りたがる犬を見たことがなかったから。爆走している犬って、本当に生き生きして、顔に喜びが満ち溢れてるんです。制御不能なあの感じは凄まじいですよ。塊になって走ることの相乗効果もあると思います。10頭で走ることで、エネルギーが爆発していく感じがします。

―― 翻って、人間の天分は何だろうと、自問していらっしゃる。答えは出ましたか? 

 うーん。まだわからないですね。考えることがそうなのか……。何でしょうかねえ。

―― 以前、講演会でこんな質問が出ましたよね。角幡さんは個人的な旅をし、それを微に入り細をうがって書いているが、何の役に立つのかと。この問いに対しては? 

 それには明確に答えが出ています。冒険なり登山なり漂泊なりが人類の進歩に寄与するかといえば、しません。社会の役に立つかといえば、立ちません。でも、僕の行動作品を欲する人はいる。それは批評になるからです。今の時代や社会の価値観にゆさぶりをかけることが、冒険や登山を表現することの唯一の意味だと思っています。
 そもそも人間が生きる喜びは、社会の役に立つとか、社会にとって意味があるという次元に回収されないところにあるんじゃないか、というのが僕の問いかけなんです。例えば就職活動に有利になるからとボランティアをしても、社会の役には立っても、深いところでその人の生き方にはつながらないですよね。外側の価値観に合わせるのではなく、自分の内なる価値観と行動が一致しない限り、真の幸せは訪れないだろうと思っています。僕の旅は、僕だけにしか意味がないからこそ、生きることそのものであるわけで、外側の価値観で生きていたら、永久に生きることをつかみ取ることはできません。そういうメッセージを、作品には込めているつもりです。

越えられない一線を
越えるために

―― 第三部の構想はいかがですか? 

 いつになるかわかりませんが、近代的な行動原理ではなく、前近代のエスキモー的な行動原理で旅ができるように僕が変わったとき、第三部が書けると思います。エスキモー的な行動原理とは、簡単に言えば、帰りの食料を持たなくても狩りをしながら旅を続けられること。普通の近代人はそんな怖いことはできない。帰りの食料を担保した上でないと、どんな探検も登山もできないからこそ、ここには越えられない一線があると思っています。この一線を越えるには、犬橇や狩りの技術・経験に加え、土地への深い信頼が必要になります。

―― エスキモー的な行動原理で旅をした方はいらっしゃいますか? 例えば植村さんは? 

 植村さんの犬橇技術はエスキモーから譲り受けたものだったけれど、行動原理はエスキモー的ではなかったというのが僕の考えです。言ってみれば一直線に突き進むスタイルで、30代でパワーがあったからできたんだと思いますが、イヌイットはそういう旅をしないんです。
 エスキモー的な旅は、土地の力をうまく使いながら進むんです。土地の条件をよく知っているから、犬橇で走りにくいルートに無理して行かないし、どこにどんな獲物が出るかを知っているから、食料を持たなくても帰ってこられる。そういう旅ができるようになったとき、僕の旅は一つの完成を見るはずです。そうした行動原理を書くことが、この三部作の着地点になると思っています。

角幡唯介
かくはた・ゆうすけ●探検家・作家。
1976年北海道生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。新聞記者を経て探検家・作家に。著書に『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞)『雪男は向こうからやって来た』(新田次郎文学賞)『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(講談社ノンフィクション賞)『探検家の日々本本』(毎日出版文化賞書評賞)『極夜行』(Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞)『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』等。

聞き手=編集部/構成=砂田明子 撮影=竹沢うるま

青春と読書
2023年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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